岐阜県勢の甲子園での試合数は2023年までで262。本塁打は選抜12本、選手権32本しかないが、このうち、選抜甲子園通算100号となるメモリアルアーチを放ったのが現県岐阜商の鍛治舎巧監督(72)で1969年選抜2回戦比叡山(滋賀)戦。「この本塁打が、野球人生の大きな転機になった」と語る鍛治舎監督に思い出を聞いた。

 2024年は、高校野球の聖地・甲子園球場が開場して100周年を迎えます。岐阜新聞電子版で毎週木曜日に各年の感動を当時の紙面と主力選手インタビューで振り返る「甲子園100年ぎふ」を連載中。そのインタビュー記事をWebで紹介します。電子版ではベテラン記者による解説記事、当時の紙面も掲載。電子版はこちらから。「媒体」で「ぎふ高校野球」を選択してください。
「選抜甲子園通算100号本塁打が野球人生の転機になった」と語る鍛治舎巧監督=岐阜市則武新屋敷、県岐阜商高
 【鍛治舎巧(かじしゃ・たくみ)】 1951年、揖斐郡大野町生まれ。岐阜商高(現県岐阜商)のエースとして69年選抜ベスト8。早大を経て社会人野球の松下電器(現パナソニック)で選手、監督。枚方ボーイズ監督として12年間で12度日本一になった。高校野球は解説者を長年務め、監督として秀岳館高(熊本)で3季連続甲子園ベスト4。母校監督は2018年に就任し、春夏4度の甲子園に導く。

 ―ドラフト2位で大洋(現DeNA)入りする間柴茂有さんとの左腕対決。自身のピッチングは。

 鍛治舎 肩とひじが故障がちで万全ではなかったんですが、アドレナリンが出て、自分のピッチングができたなと思います。捕手の成瀬辰男と、ストライクゾーンがアウトコースに広いことに早い回から気づき、外のまっすぐとストライクからボールになるカーブを中心に組み立て、抑えることができました。途中からナイトゲームになり、マウンドがカクテル光線に照らされ、舞台の上で投げている気持ちよさがありました。

選抜2回戦比叡山戦で好投した鍛治舎巧監督=1969年4月1日、甲子園球場

 ―五回に逆転し、2―1とした次の六回の先頭で、試合を決める本塁打。

 鍛治舎 打席に入る前に日下部(政憲)監督に呼ばれ「手を見せてみろ」と言われました。人さし指から小指の下まで厚いマメがつらなっており...