名門唯一、春季地区予選で敗退し、県大会出場を逃した1964年の岐阜商(現県岐阜商、78年は対外試合禁止で不出場)。夏は一転、甲子園に出場し、ベスト4まで駆け上がった。当時の主将で、後に母校監督として県最多タイの11度甲子園に導いた小川信幸さん(77)=現朝日大学長顧問=に奇跡の大逆襲秘話を聞いた。
2024年は、高校野球の聖地・甲子園球場が開場して100周年を迎えます。岐阜新聞電子版で毎週木曜日に各年の感動を当時の紙面と主力選手インタビューで振り返る「甲子園100年ぎふ」を連載中。そのインタビュー記事をWebで紹介します。電子版はこちらから。「媒体」で「ぎふ高校野球」を選択してください。
小川信幸(おがわ・のぶゆき)1946年岐阜市生まれ。1年の夏に続き、3年の夏、主将として甲子園に出場。二塁手。愛知学院大を経て、新任で母校の県岐阜商定時制に赴任。コーチを経て、2年目に全日制に移り、監督就任。岐阜県の監督として最多タイの11度、甲子園に導く。部長も含めると在籍24年で甲子園出場14度。同校校長、岐阜県高野連会長も歴任。退職後は朝日大野球部長を務め、現在は同大学長顧問。
―大会直前、岐商が誇る名将村瀬保夫さんの監督就任から大逆襲の夏が始まった。
小川 春負けて、中野(鍵一、岐商野球部中興の祖)先生から「お前たちはOBとして扱わない、練習も自分たちで勝手にやれ」と言われ、ショックだった。村瀬さんの監督就任は、中野先生が呼ばれたのか、OBの助言なのかわかりませんが、5月終わりか6月はじめ。岐阜商初の甲子園優勝の33年選抜主将で、早大でも主将で優勝、社会人野球の大日本土木の主将兼監督で日本一。岐阜商でも直前に監督になり、清沢忠彦さんを擁し、春夏準優勝に導いたすごい人であることを知り、チームの雰囲気ががらりと変わった。
―どんな指導でしたか。
小川 選手の特徴を瞬時に見抜き、最適なワンポイントのみを的確に指導した。...