東郷茂徳元外相
 昭和天皇

 太平洋戦争末期、広島に原爆が投下された2日後の1945年8月8日、昭和天皇が「原子爆弾があれば水際での戦争も不可能となり、300年もたてば再起可能になるような条件でも仕方がない」と述べ、講和を急ぐよう求めていたことが31日分かった。開戦時と終戦時の外相東郷茂徳が、在任中の出来事をまとめた手帳に記されていた。

 手帳を分析した東京大の加藤陽子教授(日本近現代史)によると、上陸する米軍を海岸線(水際)で迎え撃つ「本土決戦」に望みを託していた軍部に対し、天皇は米軍が原爆を持った以上、戦争継続は見通しが立たず、厳しい条件での講和を覚悟するしかないと判断していたことが分かる。

 加藤教授は「天皇の生々しい終戦への覚悟が伝わる。重要な史料だ」と評価する。

 手帳には鈴木貫太郎首相が8月8日「ソ連を通じて原爆の使用禁止を米国に申し入れることを希望する」と述べたとも記されていた。ソ連は同日、日ソ中立条約を破棄し宣戦布告したが、政府が最後まで連合国への仲介役としてソ連に期待していた様子がうかがえる。