
6月の猛暑。18日には多治見市で37.6度を記録するなど、全国の最高気温上位10地点のうち6地点を岐阜県内が占めた。そんな暑さの中、笠松競馬場は馬場改修入りしたが、深夜から午前8時までは調教が行われている。比較的涼しい時間帯とはいえ、30度近くにもなる。レース再開は8月11日で3歳重賞「岐阜金賞」が開催される。競走馬は馬体のリフレッシュ、成長に努めてまた元気な姿をファンの前で見せてほしい。
5年前の馬場改修時に「オグリの里」は休載したが、翌年の8カ月間レース自粛中は連載を続けた。今回も休まず「オグリキャップ、ウマ娘の聖地」でもある笠松競馬場の歴史や魅力を引き続きお伝えする。
■オグリは「ダービー」と名の付くレースに縁がなかった
人気アニメ「ウマ娘シンデレラグレイ」でも注目を浴びている笠松競馬場。敏腕トレーナーと挑戦を誓った東海ダービーも、未登録だったJRAの日本ダービーにも出走できず。オグリキャップは結果的に「ダービー」と名の付いたレースに縁はなかったが、3歳馬頂上決戦をも超越した走りを見せてくれた。
中央移籍後は「幻のダービー馬」「幻の3冠馬」とも呼ばれ、まるで同世代に敵はいなくて皐月賞馬ヤエノムテキらを「勝負づけが済んだ相手」と見向きもせず。タマモクロスら最強古馬たちとの対戦に生きがいを見いだしたかのようだった。
笠松でのラスト2戦は1987年末のジュニアグランプリと88年1月のゴールドジュニア。キャップの中央移籍は現実味を帯びてきていたが、やはり連勝することが最低条件だった。中11日で挑んだ重賞二つ。レース映像はあるが、競馬組合にも昭和末期の当時の写真は残っておらず。トレード話は水面下で進み、キャップの強さと神秘性を増幅させた重賞Ⅴとなった。
「今度はもらった」と鷲見昌勇調教師は東海ダービー制覇を確信していたが、その野望はスルリ。競走馬や馬券も投資対象として注目されたバブルの時代で、オーナーもファンも地方・笠松発の大きな夢を追い掛けた。
「ウマ娘シンデレラグレイ」ではジュニアクラウン、中京盃Vからゴールドジュニアへと突き進んでいるが、「オグリの里」では笠松時代全レースの走りっぷりを深掘り。わが家に眠っていた笠松時代の出馬表を基に最後の2レースを振り返った。

■11戦目 ジュニアグランプリ(1987年12月29日)
「怪物」オグリキャップ、どこまで強くなるのか
オグリキャップ3歳(現2歳)での最後のレースは当時重賞だったジュニアグランプリ(1600メートル)で、1着賞金は360万円だった。1997年からは「ライデンリーダー記念」として受け継がれた。歴代優勝馬にはキャップ、ホワイト、ローマンのオグリ3兄妹、ミスターボーイ、ライデンリーダーらが名前を連ね、中央挑戦の登竜門にもなったレース。
「正真正銘の怪物だ オグリキャップ王道を行く」と力強い見出し。もちろん印は「オール◎」で不動の本命馬。前走で距離が1600メートルに延び、古馬勢をも撃破(2着に6馬身差)したことから「怪物」と呼ばれるようになった。競馬エース「きょうの顔」のコーナーでも「いったいどこまで強くなるのやら。現在進行形で回を追って増幅中。そら恐ろしい怪物」とある。

■1年後に有馬記念を勝って「天下取り」
地方の野武士が、ちょうど1年後には有馬記念を勝って天下取りを果たす「立身出世物語」。まだ誰もそんな野望を抱けなかった頃で、ジュニアグランプリは地方・笠松での若駒の一戦だった。
中央デビュー前の年末。初めての芝レース・中京盃(10月)での鮮やかな勝ちっぷりもあって、中央へのトレード話は浮上していたが、鷲見調教師は「今度こそ、東海ダービーはキャップでもらった」という思いも強かった。既にデビューから11戦目。古馬の風格を漂わせるオグリキャップにとって、同世代にもはや敵はいなかった。

■4馬身差圧勝で単勝110円、複勝は120円
ジュニアグランプリではシルバーグリン(安藤光彰騎手)が逃げて、ギフキング(浜口楠彦騎手)が2番手先行。キャップは5、6番手の中団待機から徐々に進出。4コーナーで一気に先頭を奪うと、リードを広げてそのままゴールイン。2着トウカイシャーク(井上孝彦騎手)に4馬身差。800メートル戦ではキャップに2度勝っていた宿敵・マーチトウショウは出遅れが響き、最後方から追い込んだが4着どまり。キャップの単勝支持率は70%超で、配当は110円。またも複勝の方が高く、120円という珍現象になった。

最後の直線、アンカツさんは3度も後ろを振り返りながらゴールイン。焦点は2着争い。場内実況はキャップのゴールインを全く伝えず「内からフジノノーザン、5番(トウカイシャーク)が粘った」と声を張り上げた。
キャップには5馬身離されたが、後方から3着に突っ込んだのは7番人気・フジノノーザン(近藤二郎騎手)。半年後には東海ダービーを制覇しており、この世代の頂点を極めた。中央入りし、1988年のエリザベス女王杯(優勝馬ミヤマポピー)にも参戦。松永幹夫騎手の騎乗で13着に終わったが、笠松でキャップとも一緒に走った牝馬が、キャップと同じようにGⅠに挑戦していた。やはりこの世代の笠松のレベルは高かったといえる。

■「キャップやローマンを見に、高校生のファンも厩舎へ来た」
中央では有馬記念のラストランなどで、ぬいぐるみを抱えた若い女性らの姿が印象的だったが、笠松時代からキャップのファンはすごかったという。
鷲見元調教師は「そりゃ、ファンが厩舎などに来づめやったから。ピークの頃は、高校生まで見学に来ていた。夜でも学校帰りにね。キャップがレースで走りだしてからは他の馬も続いて勝ったから。ファンが来て来て、昔は厩舎にも入れていたからね」とフィーバーぶりを肌で感じたという。あの伝説となった「有馬記念オグリコール」の3年前のことだった。笠松のような地方競馬では、自分の足で競馬場へ来て好きな馬を応援するしかなかった。当時、ファンの厩舎エリアへの立ち入り規制は緩かったようで、スタンドだけでなく、馬房での応援も熱かったのだ。のどかな昭和の時代の原風景のようで、ほほ笑ましい。

■12戦目 ゴールドジュニア(1988年1月10日)
キャップ笠松ラストランⅤ、マーチ2着
年明け4歳(現3歳)になって、重賞のゴールドジュニア(1600メートル)が笠松でのラストランとなった。既にJRAの瀬戸口勉厩舎へ移籍が決まっており、このレース後にオグリキャップは新天地・栗東のゲートをくぐることになった。
「満天下にその強さを印象づけているオグリキャップ」と◎印が並んだ。「もう勝負づけのすんだメンバーだし、問題ない」と鷲見昌勇調教師。キャップを中央に送り出すことが決まり、東海公営最後のレースを迎えた。不動の本命馬で、スタートなどで落馬しなければ確勝級。「中央移籍壮行会」の色彩も濃いレースとなった。
オグリキャップは単勝支持率70%で1.1倍。2戦目以降は全て1番人気となった。キャップが2度も敗れた宿敵マーチトウショウは△印で3番人気。アンカツさん騎乗で連勝中だった後藤保厩舎のハロープリンセス(黒宮高徳騎手)が○で、キャップに続く人気を集めた。

■「オグリ、走れ」「私、勝っちゃうよ」
雨は上がったが不良馬場。キャップは好位につけてハロープリンセスを振り切り、逃げたアルタスウエーをとらえると、最後の直線は力強く抜け出してビクトリーロード。「笠松卒業の一戦」でアンカツさんが気合を入れていっぱいに追うと、地元コースに惜別のゴールイン。前走から3秒2も縮める1分41秒8の好タイムで駆け抜けた。
「ウマ娘シンデレラグレイ」では「オグリ、走れ」「私、勝っちゃうよ」「勝てばいいんだよ」の叫びと共に1着ゴールイン。ウマ娘ファンのハートに突き刺さる笠松でのハイライトシーンとなった。
■中央移籍、笠松発の天下取りサクセスストーリー
2着争いは前走と同じくトウカイシャークと、その後の東海ダービー馬フジノノーザン。そこにマーチトウショウが猛然と駆け上がってきた。最後に「元祖・芦毛対決」の意地は見せたが、2馬身半差をつけられて2着。キャップとは6回目のワンツーとなった。笠松時代から始まっていた芦毛対決。キャップは800メートル戦で連敗後、距離が延びて5連勝。通算でも6勝2敗と宿敵を圧倒した。
距離適性でキャップが最も得意としたのは1600メートル戦。笠松で3連勝し、中央入り後もマイルCS、安田記念など4戦4勝。「ウマ娘シンデレラグレイ」でも盛り上がった笠松発のサクセスストーリー。ゲートインでの武者震いとともに中央のエリート馬をバッタバッタとなぎ倒し、2度の有馬記念で天下取りを成し遂げたのだった。
■ハロープリンセス馬主、キャップにほれ込んだ
2番人気ハロープリンセスは中日スポーツ杯でキャップに続く2着後、ラブミーチャン記念の旧称「プリンセス特別」と名古屋・新春ジュニアの重賞を連勝。ゴールドジュニアで陣営は「怪物」を倒そうと燃えていた。結果は6着に終わったが、マーチトウショウ以上にキャップの中央移籍を「後押し」する重要な役割を果たした。
ハロープリンセスの馬主は佐橋五十雄 さんで、オグリキャップの2代目オーナーとなった。中京・芝もクリアした圧倒的強さにほれ込んで中央トレードを持ちかけ、1年後には有馬記念を勝ってオグリ伝説につなげたキーマン。ぬいぐるみ販売も手掛け、爆発的競馬ブームの仕掛け人にもなった。ハロープリンセスは報知杯4歳牝馬特別にも挑んだが13着に終わった。

■夜中に「調子はどうや」とマスコミの取材すごかった
鷲見元調教師によると、キャップが中央へ行く前から、マスコミの取材もすごかったそうだ。「夜遅く0時すぎからも『調子はどうや』とか電話がかかってきた。早く寝ないと朝起きられないし(3時から調教)。こっちに娘ら家族もいたので『何か事故でもあったのでは』と心配させられた。夜中に電話がかかってくるのは本当に嫌だったな。キャップだけでなく、他にも走る馬がいたから。雑誌やNHKなどからも電話があった」
当時、笠松の古馬ではフェートノーザンやワカオライデンなど活躍馬はいっぱいいたが「強い馬をよそから買ってきたら、笠松でも走って当たり前。ここで育った馬じゃない。俺はそうではなくて、笠松でデビューした生え抜きを育てて、東海で走るダート馬をつくることが目標だった」と力を込めた。地元の調教師としての意地もあって、新馬戦から育成に力を入れたのだ。
■「売るなら2億円。中央でも簡単に働いて稼ぐから」
笠松時代のキャップは当然ダートで走っていたが、8戦目に中京・芝コースの1200メートル戦に挑んだ。鷲見さんは「勝己を乗せて、芝は初めてだったが、どえらい時計で上がってきて勝った。ダートでも芝でも走るなあと」。このレースを見た中央の馬主資格を持つ佐橋オーナーが注目し、トレード話を持ちかけてきたという。「毎朝、調教が終わって朝飯を食べる頃に、佐橋さんがアメ車に乗って、うちばかりに来て『売れー、売れー』と言ってきた」とあきれていた鷲見さん。

「キャップは小栗さんの馬で、俺は預かっているだけ。俺の馬ではないが『売るなら2億円だよ』と言ってやった。オーナーに話をしなくても、その額なら持っていってもいいよと。中央に行ったら、簡単に働いてアッという間に稼ぐ馬だから、俺は2億しか絶対に嫌だと」。すると佐橋さんは「鷲見さん、そんなー。中央へ行ってスッと勝てるもんじゃない」と言ってきた。でも「勝つ。絶対に勝って上がっていく馬だと。小栗さんは中央の馬主資格はなかったが、キャップをひのき舞台に上げて走らせたかった」と当時の思いを明かしてくれた。
鷲見さんは調教師時代にオグリキャップを預かり、厩舎でも寝食を共にしながら中央馬を圧倒する強い競走馬に育て上げた。キャップとの東海ダービー奪取の夢は果たせず「笠松卒業」となったが、日本の競馬史上最大のヒーロー誕生を後押しした。
笠松から中央へと旅立ち、3年後の1991年1月、笠松競馬場でオグリキャップの引退式が開かれ、土手を含めて3万人超が来場した。小栗初代オーナー、鷲見元調教師、川瀬友光元厩務員らの姿があり、アンカツさんを背に場内を周回。野武士の天下取りをたたえ、大きな拍手と「オグリコール」が響き渡った。
☆ファンの声を募集
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(筆者・ハヤヒデ)電子メール ogurinosato38hayahide@gmail.com までお願いします。
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