
ゲートが開き、各馬一斉にスタートダッシュ
真夏のような猛暑が続き、ゲリラ雷雨もあった東海地方の梅雨明けはまだ先。笠松競馬場は馬場改修の真っただ中だが、やっぱり生のレースがないと寂しいものだ。5年前の改修時には、調教師・騎手による馬券不正購入が発覚。翌年には8カ月間のレース自粛となり、ジョッキー数は半減。競馬場に暗雲が立ち込めた。これまで経営難などで廃止のピンチは何度もあったが、現場のホースマンたちはどん底から光を求めて、存続へと立ち上がってきた。
周りは「馬券おやじ」だらけで、どろどろと欲望が渦巻いてにぎわっていた昭和の時代から笠松競馬場に通って、場内をフラフラとさまよってきた。今回、レースがない「空白の2カ月」となったが、このチャンスを生かし「笠松競馬場放浪記」と題して、入り浸りとなった40年を超える泣き笑いの競馬ライフを振り返ってみた。

ファンがスタンドを埋め尽くし、年末の大一番として盛り上がる東海ゴールドカップ
■大学時代はマージャン、パチンコ派
昭和末期から平成にかけて、わずか2日間で夏のボーナスが消えてしまうかというピンチもあれば、万馬券を大口でゲットできるかというチャンスもあった。先日、取材で笠松競馬場に来た女性記者の馬券デビューをサポートさせてもらったが、自分のデビュー戦はどうだったのか。
「競馬はロマンだ」とか言っても、お金を賭けるギャンブルであり、誰もが「勝ちたい」と思っている。笠松競馬の場合、岐阜県、笠松町、岐南町の1県2町が構成団体となっている公営ギャンブルである。「依存症」にならない程度に楽しみたいが、独身時代からほろ苦い思い出がいっぱいある。
笠松競馬場デビューを果たしたのは80年代初め。大学時代はハイセイコーブームだったが、当時の学生は20歳以上でも馬券を購入できなかった。友人には東京競馬場へ通う者や飲食店での「私設電話投票」を利用しているヤツもいた。自分は競馬はやらず、マージャンやパチンコ派(当時は電動でなく手打ち式)だった。他人任せの公営ギャンブルよりも、自己流のテクニックを生かせる遊びの方が好みだった。
大学での語学の時間は出席の返事を終えると、パチンコ店「ラスベガス」に直行しチンジャラ。しばらくして真面目に講義を受けた友人が来店すると、2階のマージャン店に上がり4人で卓を囲んでポン、チー。ヒットソングの歌詞のように「アッと驚く大三元」と一発大逆転を狙ったものだ。学割で1人1時間40円と格安。遊んだ後は3階にあるレストランで歓談。貧乏学生には至れり尽くせりのビルだった。

第4コーナーを回ってゴールを目指す各馬。スタンド前にもファンがびっしり
■整理記者としてスポーツ面担当
就職した新聞社では編集局整理部に所属した。記事を書く報道記者はよく知られているが、整理記者の仕事内容はあまり知られていないのでは。新聞の見出しとレイアウトを決める紙面作りがメイン。新聞社の心臓部ともいえ、報道記者が書いた原稿のニュースバリューを判断し短時間で紙面化する。
当時の整理記者は、割り付け用紙という真っ白の紙の前で悪戦苦闘。新聞1ページ分(広告含め)の記事、見出し、写真を組み合わせて紙面作りを急ぐ。部員20人ほどで1面からスポーツ、社会面、地方版など翌日発行される朝刊を一晩で仕上げる。当時は高山市などへ発送される早版が午後11時締め切りで、すぐに輪転機で印刷された。
スポーツ面担当となり、中央のGⅠレースや笠松競馬の予想欄もあり、◎〇▲の意味などを現場で実地体験して覚えることになった。笠松競馬開催日に現場へ通っていた先輩に連れられて突撃した。
■有料駐車場のおばちゃん活躍、名古屋から送迎バスも
まずは駐車場探し。お昼ごろ、既に無料駐車場はいっぱいで、県道沿い(現在のファミリーマートがある辺り)では「こっちこっち」と旗を振りながら手招きする有料駐車場のおばちゃんたちの姿の多さに驚かされた。今とは全く違って、競馬場外も活気があって繁盛していた。どこも満車に近い状態で500円を支払って駐車した。送迎バスが名古屋、多治見方面からもファンを運び、大盛況だった。バスは7月から閉鎖される第2駐車場へ向かう坂道辺りに3、4台停車し、帰りのお客さんも運んでいた。場外の熱気は今でも強烈な印象として心に刻まれている。
競馬場に来るしか馬券が買えない時代。1開催6日間で日曜日には1万人を超えるファン(平日でも5000人以上)が来場していた。今年の「ウマ娘シンデレラグレイ賞」デーにも1万人以上が訪れたが、80年代には毎月2回は万単位の入場者があった。枠連1点に100万円勝負の大口客もいて、投入額は1人平均1日3~4万円。年末の大一番・東海ゴールドカップでは3万人前後が来場し、馬券販売は10億円超えもあった。

ムエックスが制覇した今年のオグリキャップ記念。2頭が抜け出してゴールイン。予想が的中すれば楽しさも倍増する
■「競馬東海」を手に枠連3点買い
さあ笠松デビュー戦。先輩に勧められて買った競馬専門紙。当時は「エース」「東海」「競新」「中部優駿」の4紙が売られていた。「エース」は本命予想、「東海」は穴っぽいと聞かされて「東海」を買ってみた。出馬表の見方も分からず「初心者は『枠の中の3点』を買ったらいいよ。3レースで1回当たれば元は取れるから」とアドバイスを受けた。
「東海」を手に、◎〇▲△×の印と近走のタイムや着順を比較しながら馬券を購入。1レース枠連3点買いで2000円ずつ投入した。観客席やラチ沿いは満杯で、ゴール前には近づけず。観戦ポジションは第4コーナー寄りの西スタンド通路の立ち見席だった。各馬のスピードが上がる勝負どころで迫力満点。お客さんの歓声がすごくて「これが競走馬か」と圧倒された。
当時の笠松競馬のキャッチフレーズは「走るドラマ」で、マッチ箱も配られていた。馬券初心者として的中させようと必死に考えたが、最後は専門紙頼り。祈る思いで、第4コーナーから最後の直線をゴールへと駆け抜けていく馬たちを応援した。
やはりビギナーズラックはあって馬券は的中。枠連で1000円台の配当となった。先輩に「2000円も買っていたのか。あとは遊んでいればいいよ」と言われ、気が楽になった。外れも続いたが、少しプラスで帰ることができ、笠松競馬場の魅力と魔力が詰まったワンダーランドの「底なし沼」にどっぷりとはまっていくことになった。

1993年当時の専門紙「競馬東海」。ジュニアクラウンに出走したオグリローマンは「〇印」だった
■オグリローマンは「〇印」だった
その後も「競馬東海」や「競馬エース」のファンになって、開催前日にはJR岐阜駅の売店にもよく買いに走った。1993年9月のジュニアクラウンに出走したオグリローマンは「〇印」(東海)だったが1番人気。秋風ジュニア勝ちのマルカショウグンにリベンジを果たし、重賞初Vを飾った。2強対決で枠連160円とガチガチだった。オグリキャップやトミシノポルンガも勝った出世レースでもあった。
オグリローマンは中央に移籍し、チューリップ賞2着から武豊騎手騎乗で桜花賞を制覇した。小栗孝一オーナーは中央の馬主資格も取得しており、オグリキャップで果たせなかった悲願のGⅠ初制覇を成し遂げた。中央の重賞をあっさり勝つ名馬を育て上げる笠松競馬は他地区から「不思議の国」とも呼ばれ、地方競馬の先頭を走っていた。
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(筆者・ハヤヒデ)電子メール ogurinosato38hayahide@gmail.com までお願いします。
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