田口聖記監督インタビュー3回目は、豊川監督を退任後、愛知の県立校でのボランティア監督を経て、帝京大可児監督に就任したころの指導やチームづくりについて聞いた。(岐阜新聞デジタル独自記事です)

 田口聖記(たぐち・まさき) 1968年、名古屋市生まれ。中京大中京高(愛知、当時中京高)から名城大に進み、4年時に主将。社会人野球のシダックスでも初代主将。ポジションは主にショート。99年4月から豊川高(愛知)の監督を務め、2003年から2年連続で森福允彦投手(元ソフトバンク―巨人)を擁し、夏の愛知大会で準優勝。10年から4年間、新城東高作手校舎(愛知)で野球部を立ち上げ、ボランティアで監督。14年10月、帝京大可児高監督に就任。22年と25年に夏の岐阜大会で準優勝。投手育成に定評があり、同校では加藤翼(元中日)や加藤大和(日本ハム)らをプロ野球に送り出している。

 ―豊川から帝京大可児ですか。

 田口 いや豊川を辞めてから4年くらい、愛知県新城市の県立新城東高校作手校舎(現新城有教館作手校舎)でボランティアの監督をしていた。

帝京大可児で初めて進んだ岐阜大会決勝で指揮を執る田口聖記監督=長良川球場

 豊川高校を辞めてから、トレーニングコーチの免許を持っているからということで、豊川高校の下請けのような「スポーツボックス」というフィットネスクラブの会社の取締役をしていた。今はコパンに買収されて、会社はなくなっている。

 その時、作手校舎が廃校になりそうだから、野球部を新たにつくろうと、市会議員とか豊川高校時代の部長が頼みにきて、ボランティアで監督することになった。

 最初は3人からスタートして、2年目に11人を集めた。野球はできるけど、高校に行けない子たち。自分は毎日、昼間は仕事して、夕方、学校のある山の上に車で移動して練習した。火をつければ、わっと盛り上がる感じで楽しかった。最後に僕が集めた選手たちは、僕はもう辞めて帝京大可児で監督をしていたけど、秋の愛知県東三河予選の決勝で豊川に負けたが2位になった。

 選手のうち何人かは、大学に行って野球を続けた。その年の秋の愛知県大会はベスト32だったが、もう一つ勝ってベスト16までいけていれば、21世紀枠の可能性もあったと思う。

 ―帝京大可児はどういういきさつで監督になられたんですか。...