「『この人がいなければ、今の自分はない』と思える人はいますか?」と問われたら、皆さんは誰の顔を思い浮かべるでしょうか?
家族以外の人を思い浮かべた人はいますか? それはどんな人でしょうか?
本稿は、岐阜出身の著者が東京に出て外から故郷岐阜を眺める視点で発信することが趣旨ですが、今回は東京から岐阜に移り住み、岐阜の未来に大きな貢献をした人のお話しです。
私が岐阜北高校に在学していた3年間(1989-1992)、水泳部の顧問として私に接してくださった糸井晶先生の訃報を伝える連絡を受けたのは、2月の下旬、私がアメリカに出張していた時のことです。
時差ボケで朦朧(もうろう)としている時、ふとスマホを見たら、高校時代の水泳部の後輩からのLINEメッセージが入っていました。
享年87歳。
私が高校生だった当時、糸井先生は今の私と同じ年齢の頃だったのだと初めて知りました。
年齢も50を超えると、涙を流す機会などそれほどないものですが、自然と涙があふれ止まりませんでした。
そしてそこから走馬灯のように糸井先生との思い出がよみがえってきました。

◆競泳界のロイヤルファミリー
糸井先生は、東京都のご出身で、都立新宿高校から東京教育大学(現在の筑波大学)に進み、教員として岐阜県に赴任されました。
水泳を継続され、昭和40年の岐阜国体では背泳ぎで優勝されたご経歴をお持ちです。
岐阜県で水泳に関わられている方はご存知だと思いますが、”糸井家”と言えば、競泳界のロイヤルファミリーみたいなものです。
何しろ、私が中学生当時の岐阜市の中学男子の水泳記録は、平泳ぎ以外は全部”糸井”。4人チームで行うリレーの記録には”糸井”が2人。
岐阜北高校を目指し、水泳部に入ることを決めた時から「あの糸井家の始祖にあたる人が顧問をされている」ということで少し緊張したことを覚えています。
当の糸井先生はというと、ものすごく厳しい”鬼監督”を想像していたのですが、あに図らんや、学校では柔和な”おっちゃん”という感じの方でした。水泳部でも、いつもニコニコして、冗談をとばし、余計な口出しはせず、質問した時だけ助言を与える、というスタイルでした。
前任校ではかなり厳しい監督だった、という話も耳にしましたが、学校の校風や生徒の特性に合わせたスタイルを選んでおられたのかな、と推察します。
というのも、当時の岐阜北高校は、...








