千光寺所蔵の県重要文化財の三木自綱像(同寺提供)

 甲冑(かっちゅう)を着て、白い法衣に全身を包み、修験者のような白布の頭巾をかぶる。高山市丹生川町下保の千光寺に残る県重要文化財の紙本著色三木自綱像だ。

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 唯一残る自綱の像とされ、鮮やかな彩色が施されているが、原本を江戸初期に狩野派系統の画師が写したという。岐阜県ホームページによると、高山の桐山勘兵衛尉敦が家に伝わっていた画像を1845(弘化2)年に千光寺へ寄進したとされる。

 三木自綱は一般的にはあまりよい印象では語られていない。

 祖父直頼が融和策で飛騨をほぼ統一し、父良頼が位階で飛騨支配を固めたのに対し、有力者を殺害することで、地位を盤石化したと伝えられるからだ。

 典拠となるのは後世の軍記物だが、江馬氏、広瀬氏だけでなく殺害対象は嫡男や弟、娘婿に及び、人非人(にんぴにん)扱いだ。岡村守彦さんも「飛騨中世史の研究」で「三木家を継いだ当初、有力配下の次々の離反に会い、恨み骨髄に達していた自綱の行動は、急激に凶暴性をおびてくる」「気に入らなければ、部下は言うに及ばず、兄弟・子供であろうと容赦なく殺してしまう(中略)統制方法を採り続けていた」とし、自らの過大評価が滅亡を招いたとしている。

 地域伝承でも松倉築城の際に人柱にした娘を恋い慕うあまり正気を失った母親の話(小糸坂)や、殺した弟の妻が怨念で大蛇となった伝説(おはぐろ蛇)が生まれる。実際はどんな人物像だったのか興味深い。

 自綱は1540(天文9)年生まれで「明叔録」では「しかるに鶴君行年十有三、朝に暮に、文武に研精し、歌舞に焦思(思い悩み)し、雪月窓に遑(あわて)ず(勉学にいそしむ)」と絶賛し、さらに、唐の詩人・王勃(おうぼつ)や諸葛孔明を引き合いに出すほど、天才少年ぶりをたたえている。

 明叔は菩提(ぼだい)寺の禅昌寺住職だけにうのみにはできないが、周囲を制圧していくさまは、凡人ではない。さらに織田信長の天下布武を見抜いていたのか、上杉方から織田方へと三木家を導く。(森嶋哲也)