1981年末、騎手の1周勘違いによる八百長騒ぎで、レース結果に納得がいかず、事務所前に集まった競馬ファン。新聞紙や外れ馬券などが燃やされ、騒然となった

 笠松競馬の騎手らが覚醒剤を注射したり、八百長レースを仕組んでいた昭和の事件。競馬法違反などの疑いで計19人が逮捕され、2開催が中止になったが、不正を排除して2カ月後にはレースを再開させた。
 
 当時販売されていた馬券は単勝・複勝と枠番連勝複式(枠連)のみ。場外発売はなく、競馬場まで来て、手書きの投票用紙を窓口に差し出して購入していた。電話投票もまだなく、あったのは場外で受け付ける不法な「ノミ行為」。仕組まれた八百長レースは「本命馬でも1着、2着に入るな」といった敗退行為。競馬法違反の疑いで逮捕された騎手らはそれぞれ現金3万~10万円を受け取っていた。八百長は「ノミ屋」を闇商売として営業していた暴力団などの大きな資金源になった。

■1975年12月4日 笠松競馬あす再開 管理・監視を強化、公正なレースにめど
 
 八百長レースで逮捕者を出し、過去2回にわたって自粛していた笠松競馬について、県地方競馬組合は違反者の処分をはじめ、管理、警備態勢を改善。公正なレースができる見通しがついたとして、12月5日から、約2カ月ぶりにレースを再開することを決めた。中止になったのは10月後半、11月の2開催(計12日間)だった。

 再開に向けた騎手らの処分、不正防止策や施設管理の改善策は次の通り。
 
 【処分内容】
 競馬組合では、10月29日には逮捕された騎手のうち7人を永久追放、1人を25日間の騎乗停止処分にした。また、これらの騎手に関連のあった調教師についても指導、監督が不十分だったとして、6人を戒告と60日間の賞典停止に、3人を戒告と5日間の賞典停止にした。

 【不正防止策】
 騎手らの不正防止策としては、外出証明書の携帯や装鞍所への立ち入りは騎手、調教師、厩務員に限定。いずれも写真入りの名札をつけることにした。また開催前日から最終日のレース終了まで、騎手を競馬場内に「缶詰め」にし、レース開催日のガードマンを56人から107人に増員。調整ルーム、厩舎、場内などを厳しく監視、不正を締め出す方針を示した。

 施設管理の改善策としては、①調教師と騎手の控室を分離②厩舎の外壁を設置、外部と遮断③厩舎を通る町道を閉鎖―などを実施。コロナ禍ではないが、不正行為につながるような「密な接触」の分断を図り、馬主・騎手・厩務員らで役割分担があった八百長グループの一掃に努めた。

 競馬組合では「公正な競馬運営ができる」と判断。12月5日から6日間の開催に踏み切ることにした。組合副管理者は「競馬関係者2000人の生活に深刻な打撃を与えており、十分に反省し、改善策を実施して再開することにした。組合関係者の責任についても調査が終了した段階で考える必要がある」と語った。

ファンがスタンドを埋め尽くし、年末の大一番として盛り上がる東海ゴールドカップ

■12月5日 笠松競馬が再開 大警備陣の中、2カ月ぶり

 高らかに鳴り響くファンファーレに乗って、各馬ゲートイン。八百長レースなどで逮捕者を出して中止されていた笠松競馬場で、第15回競馬が大警備陣の中、2カ月ぶりに再開された。

 初日の笠松競馬場は、あいにくの雨となったが、それがかえって「悪のうみ」を洗い流す関係者の期待を象徴していた。正午現在の入場者は3024人と、ほぼ平常並みの出足。自粛中は閑古鳥が鳴いていた場内売店は活気を取り戻し、ある売店主は「収入が全くゼロだった。その間、建設労務に出てこの日を待ち望んでいた」と明るい表情。また馬券窓口で働く女性従業員らは和やかに対応。周辺の予想屋の威勢のいい呼び声がこだまし、元の競馬場の姿に戻っていた。

 一方、まだ事件は完全に解決していないため、ちょっとしたトラブルからファンが騒ぐ心配があり、県警は制服警官2個小隊、私服24人の計110人を動員。平常の5倍での警備に当たった。組合でも約2倍のガードマンを投入。ファンの対応にも細心の注意を払いながら監視。混乱もなく、まずまずの再スタートとなった。

 当時は、厩舎で競走馬を管理していたほか、地元農家も競走馬のオーナーとなって、自分で馬の世話をするなどしてレースに備えていた。ジョッキーの数は大幅に減ったが、所属馬の流出はほとんどなかったという。
 
■景気どん底で閉そく感、殺人事件も

 1975年当時は高度成長期が終わり、第1次オイルショックを経て景気はどん底、就職難の時代。世の中は閉そく感に覆われ、凶悪な事件や事故も目立った。
 
 笠松競馬のレースが不祥事で初めて中止になった75年10月には、大垣市で中学校の女性教師が自宅で惨殺される事件が発生した(未解決のまま時効)。6月には、笠松競馬厩舎内で殺人事件も起きた。酒に酔った24歳厩務員が、競走馬に餌をやっていた同僚の45歳厩務員を刺殺した。休日に仕事をしていたことをたしなめ、口論の末、カッとなって腹部を包丁で刺した。また、この年の岐阜県内の交通事故死者は212人で、増加数40人は全国ワーストだった。

安藤勝己騎手騎乗で笠松・ジュニアグランプリを制したオグリローマン。中央移籍後に桜花賞でハナ差勝ち(武豊騎手騎乗)。オグリ一族のクラシック制覇の夢をかなえた

■安藤兄弟、川原騎手らがデビューし新しい風

 夜明け前は真っ暗闇だったが、八百長レースなどを行った騎手らを永久追放し、刷新へとかじを切った笠松競馬。少しずつ明るい光が差し込んできた。

 翌年には大勢の新人ジョッキーがデビューし、新しい風も競馬場に吹き込んだ。競馬学校である教養センターでの訓練は1年半(現在は2年)。4月に川原正一騎手、10月には安藤光彰・勝己、浜口楠彦、仙道光男騎手らが加入。新人でも騎乗機会は多く、フレッシュな顔ぶれで熱戦を繰り広げた。
 
 このうち川原騎手は、笠松で騎手リーディングに7回輝いた。2005年に兵庫競馬に移籍したが、地方通算5500勝を超え、現役で活躍する還暦ジョッキー。笠松時代の1998年と2000年にはNAR(地方競馬全国協会)グランプリの「ベストフェアプレイ賞」を受賞した。年間100勝以上を挙げ、一度も制裁を受けなかった成績優秀者に贈られ、笠松での受賞者はこれまで川原騎手ただ一人。フェアな騎乗ぶりで模範を示し、体を張って「環境浄化」に努めてくれたといえよう。

 安藤勝己騎手はデビュー3年目から18年連続で笠松リーディング(通算19回)。華麗なるオグリ一族の主戦として、オグリキャップ、オグリローマンの兄妹やライデンリーダーに騎乗し、「笠松競馬」の名を全国にアピール。中央移籍後、GⅠで22勝を飾った。現役引退後もレジェンド・武豊騎手を「ユタカちゃん」と呼べるのはアンカツさんぐらいで、妙にはまっていて、ほほ笑ましい。やはりオグリキャップの背中を知る2人(9戦9勝)には、お互いを敬愛して通じ合うものがあるのだろう。

笠松の名馬リュウアラナス。1979年の地方競馬招待競走で、日本ダービー2着馬などを圧倒し制覇。地方馬として中央初Vの快挙を達成した

 波乱に満ちた笠松競馬で、1970年代のラストを飾った競走馬はリュウアラナス。79年、地方競馬招待競走(中京・芝)で中央馬のロングファスト(日本ダービー、菊花賞2着)やバンブトンコートを圧倒して歴史的な1勝。地方馬として中央初Vの快挙を達成したのだ。2着にも笠松のダイタクチカラが入り、笠松馬が中央のエリート馬を倒す先駆けとなった。

■黒い霧を一掃した昭和の事件を教訓に

 昭和の事件では2開催、2カ月間の空白はあったが、逮捕された騎手らの処分や再発防止策を明らかにして、速やかにレース再開へとつなげた。
 
 一方、今回の一連の事件では、警察の捜査とともに主催者や第三者委員会の調査が進められているが、先行き不透明。名古屋国税局の税務調査を受け、騎手・調教師らによる約2億円の所得隠しは修正申告が済んでいるというが、他人名義での馬券購入疑惑にも踏み込めるのかどうか。今後どこまで実態が解明され、関係者の処分が行われるのか。既に3開催が中止となったが、レース開催の生命線である競走馬は減少傾向にある。主催者が3月1日にレースを再開させるためには、調査を長引かせてはならない。
 
 昭和の八百長事件は46年前のことで、ほとんど知られていなかった。「ドロドロですね」「生々し過ぎる」などと驚きの声が多かったが、関係者が一丸となって黒い霧を一掃し、その後の復興へとつなげた。その歴史的な教訓を、今回の事件にも生かしてもらいたい思いから、詳しく振り返った。

 事件が発覚した1月19日、高知競馬の「逆転人生」(NHK放映)とは明暗がくっきりと分かれたが、笠松競馬場にも「地方競馬の聖地」としての意地がある。安藤勝己騎手、オグリキャップらが出現し、90年代の黄金期へとつなげた復活劇。今回の事件でも現場が底力を発揮して、あしたのために、どん底から立ち上がりたい。