先月16日、板垣退助の命日。土砂降りの雨の中、高知市郊外にある板垣家の墓所に読経が響いた。関西から駆け付けた子孫の高岡功太郎さん(48)は、静かに手を合わせ、自由民権運動のために尽くした高祖父の人生に思いをはせた。

 104回忌に板垣退助の墓を訪れ、供花する高岡功太郎さん(左)と谷是さん。1919年に亡くなった板垣は東京の菩提(ぼだい)寺に葬られたが、後に分骨され故郷にも墓が建てられた=7月16日、高知市

 土佐藩の武家に生まれた板垣は、幕末から大正の激動期を駆け抜け、1919年に83歳で亡くなった。その生涯を象徴するのは、1882年に岐阜で暴漢に襲われた際に発したとされる「板垣死すとも自由は死せず」の名言。

 高岡さんは「命を懸けて取り組んでいることが直感的に伝わる言葉だったからこそ、人々の心を動かした」と力を込める。一方で「文言は広く知られていても、どこで、どんな状況で生まれたのかを説明できる人は少ない。それが子孫として悲しい」と、ため息をつく。

 高岡さんは、板垣の実像をもっと知ってほしいと、顕彰団体「板垣退助先生顕彰会」(事務局・大阪府)の理事長を務める。「たとえあの名言がなかったとしても板垣の功績は揺るがない。岐阜事件後も暴力に屈せず、日本のために志を貫いた板垣の生き方や精神こそ語り継がれてほしい」と望む。

高知市の高野寺に立つ板垣退助生誕地を示す石碑 

 同日、高知市の板垣生家跡地に立つ高野寺で命日の法要があった。高知の有志らでつくる「板垣会」が毎年執り行っている。同会では他に、墓地の清掃やゆかりの地の碑の整備・保存もしている。

 谷是(ただし)副会長(83)は、板垣の人物像について「私利私欲がなく、曲がったことは一切やらない愚直なタイプ。政治家というより武人であり、土佐人らしい気質の持ち主だ」と語る。さらに「金集めなどは不得意で、財産を自由民権運動に費やし、理想と信念を貫いた生きざまも魅力」と付け加える。

 高野寺で行われた命日の法要

 高知を中心に板垣の顕彰活動が続いている。翻って、名言の“発信地”は―。命日翌日の7月17日、岐阜遭難事件の現場である岐阜公園(岐阜市大宮町)で、事件から140年を記念した集いが行われた。可児市の歴史研究家、板垣国和さん(77)の呼びかけで実現。同様の催しを、岐阜市の有志団体が毎年開いてきたが、新型コロナウイルスなどの影響で、ここ数年は開かれなかった。企画者として奔走した板垣さんは「もっと地元で関心が広がってほしい」と願う。岐阜の集いにも足を運んだ高岡さんは、高祖父の銅像を前に「板垣にとってもゆかりのある地。岐阜の方々とも一緒に顕彰活動をしていきたい」と話した。

亡くなる前年、除幕式で来岐 銅像と“ツーショット”

 板垣退助銅像の前であいさつするのは、板垣本人。亡くなる約1年前の1918年4月21日、岐阜遭難事件の地である岐阜公園で行われた除幕式での写真が残されている。高知や国会議事堂にある銅像は没後の建立のため、本人と銅像の貴重な“ツーショット”だ。

 銅像は洋装だが、写真の板垣は紋付きはかま姿。手元にはボーラーハット(山高帽)が置いてある。子孫の高岡功太郎さんは「土佐桐の家紋は、江戸期に土佐藩主の副紋として使われたもので、戊辰(ぼしん)戦争の功労で使用を認められた。板垣はこの紋をとても気に入り、大事な時は紋付きを着用していた」との裏話を紹介する。

 1918年、岐阜公園での板垣退助像除幕式に参列し、銅像を前にあいさつする板垣退助(私家版「立國の大本」より、高岡功太郎さん提供)

 岐阜市史によると、板垣が岐阜駅に到着すると、合図の煙火が数発打ち上げられ、市内では余興として相撲大会なども開催された。式典では、高齢の板垣に代わり、息子が除幕の綱を引いたという。

 写真をよく見ると、板垣銅像は「両手を下ろして胸を張り正面を見据える」ポーズ。現在、岐阜公園に立つ「右手を上げたスタイル」の銅像とは違うことに気付く。“初代”銅像は、戦時下の1943年に兵器の原料とするため供出された。現在ある銅像は戦後に再建された“2代目”。

 ところで、板垣が生前に演説でよく語っていたと伝わる言葉がある。「死んだら終わりだと人は言うが、私はそう思わない。私の墓の前で志ある人が世の矛盾に憤り、それを糾(ただ)さんと働いてくれるのなら、私の死は終わりではない」

 板垣死すとも―。その志は銅像となって、今も事件の地「岐阜」から日本の自由と民権の行方を見守っている。