戦闘機や輸送機が駐留する航空自衛隊岐阜基地。現代はジェットエンジンで飛行する=9日午前、各務原市
岐阜基地を飛び立つ航空自衛隊の戦闘機=各務原市
岐阜基地を飛び立つ航空自衛隊の戦闘機=各務原市

 1945(昭和20)年8月15日の太平洋戦争の終戦から、今年で77年になる。時代を変えるほどの長い年月だが、この77年間、日本は再び戦火にさらされることなく、平和を維持してきた。だが、国際情勢は刻一刻と変化している。教訓として当時の記憶を継承する意義は大きいが、そのまま現代の仕組みに当てはまるわけではない。今は今なりにどう平和を守るか考えなければならない。緊迫する国際情勢。もし、日本が戦争に巻き込まれたら。その時、岐阜県は-。平和の行く末を考えた。

 各務原市にある航空自衛隊岐阜基地。県内の戦争の歴史と戦後の平和の歩みを考える上で、欠かせない場所の一つだ。連日、航空自衛隊(空自)の戦闘機や輸送機が迫力のあるごう音を響かせながら、ここを飛び立つ。昔はプロペラの音だったが、今はジェットエンジンの音だ。

 基地の歴史は古い。旧陸軍が明治初期に開いた砲兵演習場を大正期、飛行場にしたのが始まりで、現存する飛行場では国内最古。太平洋戦争中は、陸軍の「飛燕(ひえん)」や海軍の「零戦(ぜろせん)」といった国産戦闘機がここで初飛行した。

 「私が住む集落の方にも山に隠すようにして飛行機がずらりと並んだ。整備兵が操縦席に座らせてくれたこともありました」。そう振り返るのは、この地に生まれ育った元教員の石田昭彦さん(86)=各務原市那加北洞町=。基地のある各務原は、戦争体験者が語る体験談も独特だ。

 各務原を代表する航空機産業は、戦前から歴史があり、戦時中は航空機材の補給や修理を担う陸軍航空廠(しょう)の支廠をはじめ、川崎航空機の工場(現川崎重工業岐阜工場)や三菱重工業の格納庫などが置かれる一大生産拠点でもあった。

 が、そうした軍事的に重要な拠点は当然、米軍の攻撃目標になり「大爆撃を受けてほとんど壊滅状態に陥った」(各務原市史)。

 戦後は一時、米軍基地になり「キャンプ岐阜」と呼ばれた。基地の周囲には米兵相手の歓楽街も形成された。そして1958年、全面返還。そんな歴史が刻まれている。

 「現在は、航空自衛隊の第4高射群、飛行開発実験団、第2補給処といった部隊が所在し、約2千人の隊員がいます」。岐阜基地の現体制について藤永国博基地司令が説明する。このうち、第4高射群は岐阜基地唯一の戦闘部隊だ。有事の時、弾道ミサイルなどを撃破する地対空誘導弾「パトリオット」(PAC3)を装備。中京・関西圏を守備範囲にしている。

 空自の戦闘機は、岐阜基地の航空祭で航空ファンの被写体になるなどして市民との間で平和的な交流が続くが、対外的には予断を許さない状況にある。

 空自のまとめによると、近年、周辺国の領空侵犯事案が増えている。防空のため、空自が戦闘機を緊急発進させた回数は、最近10年では2016年度の1168回をピークに昨年度も1004回を数えた。岐阜基地に戦闘機部隊はないが、藤永基地司令もそうした情報を共有しており「緊張感は高まってきている」と気を引き締める。

 地元の各務原市も、空自の基地と航空機産業を抱えるまちとして危機意識を高めている。もし、日本が戦争に巻き込まれたら-。小鍋泰弘副市長は「太平洋戦争の歴史を踏まえると、有事の時はやはり狙われやすい地域だと考えている」と想定する。

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 平和をどう守るか。そもそも、なぜ日本は平和を維持できたのだろうか。有識者を取材した。

<第2回「77年間の平和」に続く>