山肌に残された巨石群は迫力満点。大きな岩を割って堀切を築くのはとてつもない労力だったに違いない=土岐市妻木町、妻木城跡
記者独断の5段階評価

難攻不落度

「急峻(きゅうしゅん)な地形を生かしつつ、堀切や土塁で防御性を高めている」


遺構の残存度

「曲輪、石垣などが残り、山城らしさを体感できる」


見晴らし

「三の丸跡からは中央アルプスまで見渡せる」


写真映え

「こけむした石垣や巨石群は映えポイント」


散策の気軽さ

「南側の駐車場から山頂までは10分ほど。駐車場までの林道はかなり狭いので、運転に注意したい。麓からだと険しい登山道を約30分」


 妻木城(土岐市妻木町)は、美濃と尾張の国境近くに存在した山城。山全体が花こう岩で覆われており、造成作業で露出したとみられる大きな岩が城内のあちこちに残る。こけむした巨石群が、重厚な雰囲気を醸し出している。

 

 築城時期については諸説あるが、土岐明智氏が築いたのが始まりとされ、のちに一族の妻木氏が拠点として整備した。歴代城主の一人、妻木広忠は明智光秀の叔父とも岳父ともいわれている。戦国期には、東美濃をめぐる織田氏と武田氏の争いに巻き込まれ、1600年の関ケ原の戦いでも徳川方(東軍)の重要地となった。

 登山口は北側の麓と南側の山頂付近の2カ所。夏場であることも考慮し、今回は山頂近くまで車で“進軍”した。

十字のくさび跡が残る巨石=土岐市妻木町、妻木城跡

 駐車場から散策道を進むと、深さ10メートル以上の巨大な堀切(ほりきり)にぶつかる。尾根を人工的に分断し、城郭の南東部を180度囲むように巡らされている。この堀切は、関ケ原の戦いを前に、徳川家康が命じて築かせたとも伝わる。

 辺りには巨大な石がごろごろ。複数に「矢穴」の跡も見られる。上部の太鼓櫓(やぐら)から堀切を見下ろすと、その一つには十字にくさびを打ち込んだ跡がくっきり。割って取り除こうとしたが諦めたのだろうか。

 普請には「岩崎城(愛知県日進市)から人足100人が派遣」されたと記した資料も残る。天下分け目の決戦に備え、巨石を砕いての急ピッチな工事がいかに困難を極めたか、目に浮かぶようだ。

三の丸跡からの眺め

 北東に開けた三の丸跡からは、妻木領内と御嶽山や恵那山などが一望でき、信濃方面に目を光らせていたことがうかがえる。山頂部の曲輪(くるわ)には昭和期に復元された石垣がそびえ、城らしさを演出している。帰りは堀切の中を進む道を通った。立ちふさがるかのような巨石群が、山城の威容を体現しているようだった。

 
【攻略の私点】主郭部守る大堀切、井戸備え籠城も可能

 標高約400メートル、笠原断層崖に築かれた妻木城について「妻木城址(じょうし)の会」の黒田正直会長(66)に聞いた。

 北側は断崖で、麓との比高差は約200メートル。攻め上がるのは無理だ。南側はやや緩やかだが、大堀切が巡らされ主郭部を守る。ここを突破するには多大な犠牲を強いられそう。徳川家康は弱点となる南側の防御を強化させたのだろう。城内には、井戸や水源地があり、籠(ろう)城も可能だ。

石垣と平場が階段状に続く麓の士(さむらい)屋敷跡

 東濃地域は戦国期、武田と織田がぶつかる最前線だった。周辺では小里氏や明知の遠山氏が領地を失ったが、妻木氏は自領を守り抜いた。関ケ原の戦いでは徳川方として東濃をめぐる攻防で功績を挙げ、7500石を所領。旗本として、1658年のお家断絶まで一帯を治めた。

 山頂部の曲輪から礎石が出土し、櫓や館などの建物があったと推察される。江戸期に入ると、山上から山麓の御殿へと機能が移り、山城としての役目を終えた。

 麓に残る広大な士(さむらい)屋敷(陣屋)跡も見どころ。城への登山道も延びているので、時間と体力に余裕があれば、山城の険しさを体感してほしい。