見張り台の曲輪からは主郭一帯を望むことができる=可児市久々利、久々利城跡

記者独断の5段階評価

難攻不落度

「防御機能は強固で技巧的」


遺構の残存度

「段々に連なる曲輪群や切岸に、高い土木技術の跡」


見晴らし

「上部からは久々利地域が見渡せる」


写真映え

「連続する切岸は山城らしさ全開」


散策の気軽さ

「比高差は約70メートル、主郭までは所要15分ほど」


 可児市東部の丘陵地にある久々利(くくり)城跡は、斜面を削平した階段状の曲輪(くるわ)が特徴的な「土造りの城」。戦国期に、土岐氏の流れをくむ久々利氏が居城とした。その大規模な土木工事の痕跡からは、同氏が可児地域でいかに威勢を誇っていたかを垣間見ることができる。

 

 伝承では、1300年代後半に久々利氏の祖・土岐康貞が築城したとされ、城主は代々「悪五郎(あくごろう)」を名乗ったという。1500年代に入ると、烏峰(うほう)城(のちの美濃金山城、同市)の斎藤妙春と激しい戦いを繰り広げ、久々利氏が妙春を暗殺して地域の覇権を握った。

 「戦国可児」の面影を追って登城開始。県道沿いの登山口から5分ほど進むと「虎口」が待ち受ける。土塁によって進入路をクランクさせた枡形(ますがた)構造で、側面は折れ曲がった「横矢掛け」。動きは制限され、頭上の曲輪から攻撃を受ける。

 城郭への入り口となる「枡形虎口」跡。奥にも土塁が築かれ進入路がクランクしている=可児市久々利、久々利城跡

 さらに登っていくと、三の丸、二の丸などの複数の曲輪の跡。人工的な切岸(きりぎし)が上部へ段状に連なる光景は圧巻で、“要塞(ようさい)”ともいうべき威容だ。15分ほどで、標高約180メートルの主郭とされる曲輪に到着する。南に開けた平場からは支配地一帯が見渡せ、同時に眼下の曲輪群にも目を配ることができる。狭い土橋を隔てた城郭最上部には、見張り台のような小さな曲輪。主郭が敵の手に落ちても少しの間ならここに立てこもれそうだ。

 冬場は雑草が少なくなるので、曲輪や切岸が見やすくなる(可児市提供)

 1500年代半ば、織田信長の美濃侵攻に伴い、久々利氏は美濃金山城の森氏の傘下に入った。「本能寺の変」が起こると、森長可(ながよし)は東美濃支配を狙って久々利氏をけん制。当代の「悪五郎」を金山城に誘い出し、これを討ったという。一説には、実行したのは斎藤妙春の孫だといい、復讐(ふくしゅう)を果たしたとも伝わる。城主の死後、戦国末期からひっそりと残された城跡は「戦国可児」の盛衰を今に伝えている。

【攻略の私点】防御に抜かりなし、高度な土木技術は見事

 総石垣の城が登場する以前の中世城郭である久々利城について、可児市文化財課の松田篤さん(48)に解説してもらった。

 複数の曲輪を階段状に積み重ねた連郭式で、土造りの典型的な「戦国の山城」。鉄砲が使われる前の時代の、山に立てこもる戦法に適した強固で技巧的な防御機能を備える。

三の丸から主郭方面を見上げれば、階段状に曲輪と切岸が続く。夏場は雑草が多いので、冬場の見学をお薦めしたい

 正面となる南側は「枡形虎口」と、曲輪群が敵の行く手を阻む。背面となる北側は丘陵が続いているが、険しい地形で大軍が攻めてくるとは考えづらい。それでも二重の堀切(ほりきり)を設けており、防御に抜かりはない。

 城は森氏に制圧されたが、合戦で落城したわけでない。森長可も直接攻めるのは難しいと感じていたから、暗殺という手段を取ったのではないか。そういう意味でも、可児が誇る「難攻不落な城」と言えるだろう。

 一つ一つの曲輪はとてもきれいに整地されており、切岸の造成も見事。久々利氏が高度な土木技術を持っていたことが、400年以上たった今でもよく分かる。ぜひ現地を訪れ、その技術の高さを見て感じてほしい。