緑のよく見える職場2階の一室から、女性は主治医に電話した=高山市内

 「入院させないとしたら、私に何ができるだろう」。岐阜県高山市の女性は、統合失調症の兄の治療を巡って悩みを深めていた。措置入院とは異なる、もう一つの強制入院制度「医療保護入院」の選択を迫られていた。

 40代の兄の様子に変化が表れたのは、新型コロナウイルスの感染が広がり始めた2020年春。福祉施設が通所サービスを休止し、家族以外の人との関わりが激減した頃だった。ある時、自ら薬を過剰摂取。20年以上、服用を続けてきて初めてのことだった。

 精神科への入院経験はなかった。主治医は「入院治療を勧める。でも、できれば本人同意の上で」。兄は「たばこが吸えないような所には行かない」と拒み、恐れた。次第に、近所に出かけてはぶつぶつと「狙われている」「殺される」と妄想を語るようになり、110番された。家族がよく知っている症状や言動は、社会では容赦なく「問題行動」と見なされた。

◆3度目の通報

 8月。3度目の110番で警察署員が自宅へ来た。恐怖で混乱する兄に「入院が必要か主治医の意見を聞こう。通報者もいるので、『注意』だけでは帰れない」と告げた。説得の末に兄は「受診だけなら」と受け入れ、署員らと車に乗った。病院で診察を待つ間、兄が任意入院を拒んだ時に備え、保健師は家族に医療保護入院の同意書へのサインを求めた。迷いながらも「これ以上、周囲に迷惑をかけられない」と母がペンを取った。

 落ち着きを取り戻していた兄は「自分は大丈夫。入院したくない」と主治医に説明。任意入院の可能性がなくなった。同席した署員は突然立ち上がり、「またこんなことがあったら困るぞ」と脅かすように言ったという。

 「何だよ!」。兄が恐怖からか声を荒らげると、主治医は「やはり今は自分をコントロールするのが難しい。入院してしっかり治しましょう」と告げた。男性看護師ら4人がかりで抱えられ、引きずられながら病棟へ向かった。「嘘つき。人権侵害や。助けてくれ」。兄の声が遠くなる。兄は医療保護入院になった。

◆何のための法

 それから約2カ月。兄は精神科病院の保護室で暴れ続け、投薬治療を拒絶した。病院は「安全な投薬のため」と身体拘束への同意を求め、母は承諾するしかなかった。食事や入浴時を除いて丸2日、全身の拘束が続いた。女性は電話で主治医に迫った。「他に方法はないのか」。主治医は「本人と看護師の安全を守りながら投薬治療を継続するには、致し方ない」と答えた。女性は退院を求め、兄は自宅へ戻った。

 真摯(しんし)に向き合ってくれた主治医への感謝はある。しかし、制度を定める法への疑問は膨らんだ。「保護室への隔離や身体拘束を家族が容認しなければいけない立場に置かれることで、兄だけでなく私自身の尊厳もひどく傷つけられた。何のための法なのか」。入院生活でトラウマを抱えた兄は次第に、その恨みを拳とともに女性に向けていったという。

 精神疾患のある人が「問題行動」で警察に通報されると、さまざまな“行き先”がある。岐阜県では措置入院が少ない問題はあるが、そもそも、さまざまな症状がある当事者を法律に基づいて画一的に対処しなければならないジレンマが横たわる。本人はもちろん、家族も、保健師も、警察官も―。皆が葛藤の中で判断を迫られる。

 それは精神科の医師も同じだ。他県で臨床経験がある岐阜大大学院医学系研究科精神医学分野の塩入俊樹教授は「保護室への隔離や身体拘束が医師の判断と責任で行われるのが本当に最良なのか。現状では精神科医の負担もあまりにも大きい」と指摘する。

 【医療保護入院】 精神保健福祉法が33条に定める入院形態で、精神保健指定医1人の診察と家族らの同意が要件。自傷他害の恐れはないとして措置入院にならなかった場合にも、医療や保護のため入院する必要があり、当事者本人に入院の意思がない場合に適用される。

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 精神疾患の当事者を支える仕組みは適正か。複数の警察官らが明かした現場の実情、精神医療や自立支援に携わる関係者への取材を基に、実態を追った。


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