前渡不動山から望む木曽川。麓の駐車場から山頂まで10分ほどで登ることができる=各務原市前渡東町
前渡不動山の中腹にある承久の乱合戦供養塔=各務原市
「大井戸の戦い」について記した看板=可児市土田、日特スパークテックWKSパーク
可児市土田から眺める木曽川。この付近が「大井戸の戦い」の舞台となった

 古代から天下を分ける数々の合戦が繰り広げられてきた岐阜の地。なぜこの場所で? 勝負の分かれ目は? 決戦を制した“勝者のメンタリティー”を検証しつつ、県内の合戦地を巡る。

 各務原市の前渡(まえど)不動山。山頂からは雄大に流れる木曽川が望める。麓の河畔一帯は承久3(1221)年6月、鎌倉幕府と朝廷が争った「承久の乱」の激戦地となった。北条泰時率いる幕府の大軍が、対岸の愛知県側から各務原市側に攻め寄せた「大豆戸(まめど)の戦い」だ。

 同年5月、後鳥羽上皇が全国の武士に向けて、幕府執権の北条義時追討の宣旨を下したことが乱の引き金になった。上皇に刃(やいば)を向けることに戸惑う御家人たちに、北条政子が「ご恩と奉公」の名演説で結束を呼び掛けたことは広く知られ、昨年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のクライマックスでも描かれた。

 

 守るか攻めるか、幕府は揺れた。「吾妻鏡」によると、評議では箱根や足柄の関所で敵を迎え撃つことでまとまりかけたが、文官の大江広元らが「敵に時間を与えず京へ攻め上がるべき」と主張。東山道、東海道、北陸道に分かれて出陣したという。

 朝廷軍は、木曽川を“第一防衛ライン”とし、大井戸(美濃加茂市)から墨俣(大垣市)まで、美濃の「12の渡し場」に2万騎を分散して待ち受けた。水深が浅い大豆戸は、総大将の藤原秀康と三浦胤義らが固めた。対岸に到着した幕府軍は、東山道・東海道軍15万余騎。泰時と、胤義の兄三浦義村の主力部隊は、大豆戸で敵と対峙(たいじ)した。

 決戦の火ぶたは、上流の大井戸で切られた。合戦の空気を感じに可児市を訪れた。木曽川沿いの公園「日特スパークテックWKSパーク」。川を見下ろす一角に、戦いについて記した看板が立つ。この付近から幕府の東山道軍5万騎が、美濃加茂市側へ渡って突破。泰時率いる東海道軍も大豆戸を渡り、東と南から挟み撃ち。防衛ラインを破られた朝廷軍は総崩れとなった。

 前渡不動山の中腹には、合戦の供養塔がある。朝廷の権勢をそぎ、江戸まで続く武家政権を確立させる日本史の転換点になった「承久の乱」。激戦だったとされる大豆戸の戦いの記憶を静かに伝えている。

【勝負の分岐点】勝利導いた政子の演説

 幕府と朝廷が日本の覇権を争った「承久の乱」。勝負の分岐点はどこにあったのか。各務原市歴史民俗資料館の学芸員長谷健生さんに聞いた。

 北条政子の演説で、すでに決着していたと言ってもいい。政子は、上皇本人ではなく「上皇をそそのかす武士たち」を敵とすることで御家人たちの結束を高めた。さらに、幕府が関東で迎え撃つのではなく、京へ進軍したことも大きい。武士は勢いのある方に味方する。いち早く「攻めの姿勢」を示したことが勝利を引き寄せたと感じる。

 一方、長期戦となれば朝廷軍にも勝機はあった。数で劣る朝廷軍が、木曽川沿いに陣を分散させたことを「愚かな作戦」と記した史料もあるが、川を防衛線とすることは理にかなった戦術だったと思う。梅雨の時期であり、増水した川を渡る幕府軍を撃退しながら戦が長引けば、朝廷軍は西国からさらに兵をかき集めることもできただろう。

 ただ、書物にはこの年は雨が少なく水位が低かったのではないかと想像させる記述があり、大豆戸を渡るのに苦労したような描写もない。朝廷軍が狙った展開にはならず、浅瀬から突破された。