瑞龍寺山(手前)から複数の峰が連なる金華山=10月27日、岐阜市
記者独断の5段階評価

難攻不落度

「断崖に築かれ、自然地形を生かした防御網。ただ、攻略法はある」


遺構の残存度

「一ノ門跡、石垣などに斎藤道三、織田信長の痕跡」


見晴らし

「山上部からは濃尾平野と長良川の雄大な眺めが楽しめる」


写真映え

「天守、石垣、雄大な景色と〝映え〟スポット多数」


散策の気軽さ

「ロープウエーならあっという間に山上部へ。麓からの登山道は複数あり、体力に合わせたコース選びも可能」


 岐阜城(岐阜市)は、標高約330メートルの金華山山頂にそびえていた。難攻不落のイメージとは裏腹に、何度も落城を経験している。その一つが、関ケ原の戦いの前哨戦「岐阜城の戦い」だ。

 慶長5(1600)年8月23日、福島正則や池田輝政らの東軍部隊は、織田秀信が守る西軍方の岐阜城に総攻撃を仕掛けた。その戦跡を追って、金華山ドライブウェイ中腹から、七曲り登山道に入った。

 

 金華山は単体の山ではなく連峰。江戸期に描かれた絵図には、濃尾平野に面した南西側の瑞龍寺山(水道山)から連なる峰々に、複数の砦(とりで)が描かれている。

 その一角の砦跡にまず登った。眼下には、麓の岐阜公園周辺が見える。戦国当時、一帯は長良川と土塁で囲われた「惣構(そうがまえ)」の城下町で、その外郭にあたる一帯の砦は、城の“絶対防衛ライン”だったはずだ。

 東軍は、これらの砦を攻め落とし、大手道を山上部へ駆け上がった。砦跡から急峻(きゅうしゅん)な七曲り登山道を20分ほど進むと「岐阜城の戦い」の激戦地とみられる「武藤峠」に差しかかる。激しい戦闘で東軍が押し戻された様子は、攻守双方の史料に残されている。ここを越えたら山上部。西軍も“最後の砦”として決死の抵抗をしたことだろう。

岐阜城の戦いの激戦地とされる金華山武藤峠付近

 さらに10分ほど登ると、ロープウエー山頂駅付近に着く。山上部では、二ノ門前の斜面から鉄製の鏃(やじり)が出土しており、天守を目前にした交戦の記憶を今に伝えている。江戸初期に廃城となった岐阜城にとって最後の一戦は、わずか一日で東軍の圧勝に終わった。

二ノ門手前の斜面から出土した鉄製の鏃

 山上部からは、視界の果てまで濃尾平野が広がる。南西には関ケ原。美濃のシンボル岐阜城が東軍の手に落ちたことは、決戦に臨む西軍の戦略にも影響したに違いない。

【攻略の私点】「天然の堀」長良川と複数の砦、難攻不落の山城

 日本城郭協会の「日本100名城」に選定されている岐阜城。戦国当時の防御網や攻略法を、岐阜市文化財保護課の内堀信雄さん(63)に聞いた。

 戦国期の城は、長良川が天然の堀となり、麓の城下町は川と土塁で囲われた「惣構」だった。南は瑞龍寺山から連なる峰々に、複数の砦が築かれ、まさに難攻不落の山城だ。何となく攻めたら絶対に攻略できないが、武将たちは攻め方を研究し尽くしている。

現在は登山道の休憩所にもなっている二ノ門跡

 「岐阜城の戦い」で、東軍は南側の砦を攻撃したが、ここは惣構の延長線上の要所で、敵の手に落ちると城は一気に窮地になる。織田信長の稲葉山攻めでも瑞龍寺山側の砦を落として進軍しており、定石の攻略法と言えるだろう。

 正攻法に反して、裏口の「水の手」ルートから攻めるのも面白い。非常に急峻なので“初心者”には難しいが、岐阜城をよく知る者ならば、最短距離で攻め上がることができる。

 城の最大の弱点は、地形が険しいため、守備の人員を配置する曲輪(くるわ)を造ることができる場所が限られていること。大軍で登られると、持ちこたえられない。