笠松でデビューしたオグリキャップの調教師だった鷲見昌勇さん

 「この馬、売るなら2億円だよ」と豪語したそうだ。オグリキャップの誕生秘話や中央移籍について、笠松競馬時代の調教師が熱く語った。

 ゲートイン時に武者震いで闘魂を注入。中央のエリート馬たちをバッタバッタと倒した「野武士」が、2度の有馬記念で天下取りを果たした「笠松発サクセスストーリー」。キーマンとなった男たちの日本一に懸けた夢や、夜の柳ケ瀬での思い出話を「オグリの里・真夏の郡上編」としてお送りする。

 日本競馬界最大のヒーローで、あの伝説のオグリコールとともに、いまなおファンの胸を熱くしているのは、種付けから笠松での育成、中央移籍まで深く関わった、この先生のおかげだ。

 笠松競馬の名伯楽・鷲見昌勇(すみ・まさお)元調教師である。地方の厩舎からオグリキャップとオグリローマンという中央のGⅠホースを2頭も育て上げた。オグリファンにとっては「神様」のような存在で、華麗なるオグリ一族の活躍とともに、昭和から平成へと「笠松競馬」の名を全国にとどろかせた。

1991年1月、笠松競馬場でもオグリキャップの引退式が行われ、鷲見さんも騎乗した

 ■故郷の郡上市で「オグリキャップの語り部」

 鷲見さんは21年前に笠松競馬の調教師を65歳で引退後、故郷の郡上市に帰られた。7月30日で87歳の誕生日を迎えられ、腰がちょっと弱ったそうだが、元気にお暮らしである。名馬を知る生き証人として、語り部のようなしっかりとした口調で、楽しいオグリキャップ話を聞くことができた。

 8年前に亡くなられた小栗孝一初代オーナーとは名コンビだった。笠松で強い馬を育てようと、柳ケ瀬の高級クラブや厩舎で飲みまくっては「作戦会議」。オグリキャップという最高傑作を育て上げた。

 ご実家は郡上市明宝寒水の山あいにあった。この日の最高気温は33度ほどだったが、蒸し暑さは感じなかった。郡上おどりは8月13~16日に徹夜おどりもあり、 名馬の里の威勢よい「春駒」の曲でも盛り上がる。明宝トマトケチャップで知られる「明宝レディース」まで来て、スーパー駐車場で「調教師だった鷲見昌勇さんのお宅は?」と地元の人に尋ねると、「付いてきて」と自宅前まで案内していただいた。郡上人の温かさにも触れることができ、とてもありがたかった。

オグリキャップが暮らしていた円城寺厩舎。老朽化が進み、薬師寺への集約が進められる

 ■「笠松競馬の厩舎、草が生えて寂れた」

 玄関を入ると、オグリキャップに騎乗した鷲見さんの写真が目に飛び込んできた。地元・北方町の和菓子「みょうがぼち」を手土産にあいさつ。笠松競馬場での里帰りセレモニーやテレビ番組では拝見していたが、お元気そうで本当に良かった。

 はじめに「笠松競馬の厩舎が寂れてしまっている」と、老朽化した施設に草が伸びて、様変わりしていたことを嘆かれた。騎手、調教師として40年ほど過ごし、オグリキャップなどの名馬が行き来した厩舎エリア。「馬は堤防道路を横断するから危ない」と、「円城寺」から競馬場に隣接している「薬師寺」への厩舎集約の進み具合を心配されていた。

 競馬場や厩舎一帯では昭和の時代から競走馬による事故が多かったそうだ。鷲見さんが笠松競馬の調教師だった頃「自転車で通学中の高校生を、自厩舎の馬が用水路に蹴り落として、骨折などの大けが負わせた」という。厩務員が馬に乗って円城寺の厩舎から、調教のため競馬場に向かう途中だった。高校生は近くの病院に運ばれたが、馬を管理する調教師として責任を痛感したという。今年になって、馬の通行は通学時間帯を避けるようになったが、一般の人を巻き込んだ重大な人身事故がまた発生したら、競馬場存続は厳しくなる。円城寺厩舎のかつての調教師の言葉は重みがあり、やはり安全確保が第一になる。

オグリキャップの母・ホワイトナルビー(1997年5月7日付・岐阜新聞夕刊)

 ■新婚旅行の稲葉さんにホワイトナルビー繁殖入りを約束

 オグリキャップ誕生のキーマンで、有馬記念を勝つような名馬の育ての親となった鷲見さん。「キャップを手掛けて触ってきたが、生きているのはもう俺だけになった」。2015年秋に初代馬主の小栗孝一さん=岐阜市=、生産牧場の稲葉裕治さんが相次いで亡くなられ、中央時代の瀬戸口勉調教師も17年に他界された。

 鷲見さんと稲葉さんは、キャップの母・ホワイトナルビーを繁殖馬として稲葉牧場に預けたことから、付き合いが始まった。稲葉さんは結婚し、札幌から奥さんをもらったばかりだった。笠松競馬に合ういい馬を見つけようと、鷲見さんは月に1回ぐらい、日高地方を見て回っていたのだ。

 稲葉夫妻は新婚旅行を兼ねて笠松競馬場にも来場。地方競馬招待競走で2着になったダイタクチカラの生産牧場でもあり、管理していた倉間厩舎を訪問。笠松のレースを見た稲葉さんは、鷲見厩舎のホワイトナルビーにほれ込んで「うちの牧場で繁殖させてほしい」と、厩舎を訪れて鷲見さんにお願いした。オグリキャップ誕生への時計の針が動き始めた瞬間だった。

 ホワイトナルビーは北海道・パール牧場生まれで、笠松では8戦4勝。アイルランドからの輸入馬・シルバーシャークの産駒で、鷲見厩舎では最初のサラブレッドとなった。鷲見さんは「当時の地方馬としては600万円と高額だったが、スタイルが良い牝馬で繁殖にも出そうと思っていて、小栗オーナーに購入してもらった」という。鷲見さんは稲葉さんに「持っていくわ」と約束。その後、ホワイトナルビーは膝が割れて引退することになり、稲葉牧場で繁殖牝馬になった。

2005年4月、里帰りランで笠松競馬場を救ったオグリキャップ(笠松競馬提供)

 ■キャップ、賞金アップとともに圧勝続き

 預けたホワイトナルビーは超優秀なママさんになった。産駒は15頭で、全馬が「オグリ」の冠名で勝利を挙げており、トータル133勝というすごい数字。鷲見さんは調教師として「東海での競馬に合う馬をつくりたかった。ダートではダンシングキャップの子がいいと思って種付けし、東海公営をなで回すような活躍を」と期待した。ゲート入りが悪く、短距離馬で芝は合わず。中央の調教師は見向きもしないような血統だったが、最初の子の種付け料は50万円ほどと安かった。

 ダンシングキャップの子はやはりゲート入りが悪かったが、オグリキャップだけはゲートでもおとなしかったという。800メートル戦では出遅れたが、ゲートさえ出れば「馬はいつでも勝てる。4コーナーを回る時には『賞金が分かっていた』と思う」とキャップの豪脚ぶりを振り返った。頭が良くて、残り300メートルほどで乗り役のゴーサインが出ると全身にスイッチが入り、地をはうように突っ走り「ゴール板の位置がよく分かっとった馬」でもあった。

 「俺は人間だから、賞金がいくら入るかは分かるけど。キャップも分かっていたような走りだった。4コーナーでは、けつの方にいても、直線に向かったらシャーと来て一気やった。勝ちよった」と回顧。デビューから5戦の1着賞金は80~85万円で3勝2敗だった。ところが距離が1400メートルに延びた6戦目からは7連勝。1着180万円、350万円と賞金がアップするごとに圧勝が増え、馬主や調教師らの期待に応えてくれたのだ。レース賞金の配分は馬主8割、調教師1割だが、レース後は小栗オーナーと一緒に夜の柳ケ瀬へ飲みに行って祝杯を上げた。「小栗さんとはお互い、どえらい飲みよったんだわ」とネオン街が懐かしそうだった。

 ■調教師として1076勝、重賞28勝

 鷲見さんは農業を営んでいたが、25歳の頃に笠松競馬場でレースを観戦。これをきっかけに騎手を志望。笠松の光岡直三郎調教師に弟子入りし、見習騎手となった。1963年春に騎手免許を取得。名古屋の則武秀夫厩舎に所属後、光岡厩舎の騎手となった。身長は162センチで、当時の騎手としては高い方で、減量に苦労した。69年12月に調教師免許を取得。騎手として89勝、調教師として1076勝で重賞は28勝。2002年3月に調教師を勇退。管理馬出走の最終日には、アンカツさん騎乗で最後の1勝を飾った。

1981年6月、オグリマンナで名古屋・アラブ王冠を制覇。(右から)小栗孝一オーナー、鷲見昌勇調教師、安藤勝己騎手、川瀬友光厩務員

 ■小栗オーナーと鷲見調教師、強力タッグで勝利の美酒

 当時、名古屋の調教師は、名古屋と笠松の両方の厩舎に馬を置けた。調教師試験に受かって、笠松の厩舎を受け持ち、10頭ほどが在厩。3年ほど笠松で奉公した後、則武厩舎から分かれて一本立ちした。小栗さんは則武厩舎から馬をたくさん買っていたが、高額で走らない馬ばかり。「うまいこと言って買わされて、損ばかりしていて気の毒やなあと思っていた」という。

 「その後、小栗さんは一本立ちした俺の方に付いてきた。そのお祝いで飲んだ時に『200万円ぐらいで馬を買ってほしい』と頼んだところ、銀行から金を取り寄せようとしたが、酔っぱらっていて大げんかになった」という。それでも小栗さんは鷲見調教師を頼りにして、その後は大当たりを連発。強力タッグとなって、勝利の美酒を何度も味わうことができた。

 ■アラブのオグリオー快走、サラブのくろゆり賞を制覇

 「一番最初にオグリオーという馬を探してきた。150万円ぐらいで、この馬走るからと小栗さんに買ってもらった。アラブ馬で、これが当たった」。負担重量60キロ前後を背負った後、サラブレッドのレースにも挑戦。負担は53~55キロに減った。柴田高志騎手(現調教師)らが乗ったオグリオーはどんどん勝利を重ね、東海クラウンやくろゆり賞などを制覇。サラブ相手でも7勝を飾り、77年に引退させた。「小栗さんも、それまでの負けをこの1頭で取り返すぐらいの勢いだった」という。翌年には「オグリオー記念」が創設され、笠松のキンカイチフジ、スズノキャスターなど全国レベルの名馬が圧勝した。アラブでは鷲見厩舎のオグリマンナも活躍。81年にアンミツさん騎乗でオグリオー記念を勝ち、アンカツさん騎乗では名古屋・アラブ王冠を制覇した。

1993年12月、名古屋・ゴールドウィング賞をオグリローマンで制覇した(左から)安藤光彰騎手、小栗孝一オーナー、鷲見昌勇調教師

 ■ホワイトナルビーを見つけ、キャップが生まれ大当たり

 オグリキャップ誕生の10年前。鷲見さんは「ぼちぼち管理馬をアラブからサラブレッドに変えようかと、最初に買ってきたのがホワイトナルビー(キャップの母)で、これも当たった。種付けを研究して、大当たりとなったのが(第6子の)キャップだった」といとおしそうに語った。

 オグリキャップをこの世に送り出した最大の功労者である鷲見さん。「ホワイトナルビーは北海道を回って歩いていて、新冠(パール牧場)で見つけた。旅費はいつも実費でしたが、見てきた馬が入厩すると、よく走った。どの馬も不思議と当たった。『負けるのはどうしたら負けるのか』と思えるほどよく勝った」と胸を張った。
 
 鷲見さんと小栗オーナーは、けんかもよくした。競馬場のレースで熱くなったりした後、柳ケ瀬のクラブで飲んでいた時に「則武の兄貴は、げたを履かせて馬を高く売っていたのでは、との話が出てきて、そんなことはないと大げんかになった」という。小栗さんが結果的に走らない馬ばかり買っていた頃のことだが、そんな苦い思いをした時代を経て、キャップの初代オーナーとなり、ローマンでは「中央のGⅠオーナー」の夢をつかんだのだった。
         
 当時は毎日のように2人で飲んでいたという。夜の柳ケ瀬では「バーやキャバレーと違って、クラブだと席に付いてくれた女の子(ホステスさん)が他の席へと動かなくて良かった」とお気に入りだったそうだ。美川憲一さんの柳ケ瀬ブルースがヒットした頃から続いた古き良き昭和の時代。岐阜の繁華街は昼間からごった返していたし、すごく活気があった。

鷲見さん宅に飾られているオグリキャップやオグリローマンなど活躍馬たちの写真

 ■北海道の牧場を訪ね歩いて、笠松で走りそうな馬を

 当時を振り返って「いい仕事をさせてもらってきた。なにしろよく当たった。30頭近くいたが、円城寺では馬房を三つもらっていた。8頭ずつで24頭。牧場へ放牧に出して休ませている馬もいて、当時は3馬房もらう調教師は少なかった」。笠松には競走馬が700頭ほど、調教師も40人以上いた時代で、ファンは競馬場に来るしか馬券が買えなかった。

 この頃、C1クラスまで上がると笠松の1着賞金は100万円。厩舎関係者のモチベーションも上がって、ゲートが悪い馬でも鍛え直してしっかりと絞り上げると、柴田高志騎手らを背によく走って勝ってくれたそうだ。アンカツさんはまだ中学生で、50年近く前のことだが、当時の笠松のレース賞金は結構高かった。今ならC1は1着60万円である。黒字化とともに持ち直してはいるが、昔と比べればまだ低く、強い馬はなかなか育たないし集まらない。鷲見さんのように北海道の牧場を訪ね歩いて、笠松で走りそうな生え抜き馬を見つけ出せれば、一発大当たりがあるかも。
   

稲葉牧場の生産馬で、笠松で活躍したダイタクチカラ。オグリキャップ誕生につながった  

 ■稲葉牧場の出世馬、ダイタクチカラからオグリキャップへ

 稲葉牧場の生産馬では、ダイタクチカラという強い馬が笠松にいた。倉間昭夫厩舎の所属で、中京での地方競馬招待競走(1979年10月)はすごいレースになった。日本ダービー2着のロングファストら中央のエリート馬が多く出走。勝ったのは町野良隆騎手が騎乗した笠松のリュウアラナス(大橋憲厩舎)で、中央のレースで地方馬が初めて勝利を飾った。クビ差2着がダイタクチカラで、中央勢相手に笠松馬がワンツー。まさかの結果で、笠松の名が全国にとどろき、稲葉牧場でのオグリキャップ誕生にもつながった。

 ダイタクチカラは41戦26勝と活躍し、稲葉牧場の出世馬となった。新婚旅行で笠松にも来た裕治さんとの約束で、ホワイトナルビーを稲葉牧場に預けた。鷲見さんは小栗さんと一緒に稲葉牧場を訪問。夜遅くまで稲葉宅で酒を飲んでどんちゃん騒ぎ。「新婚だったお嫁さんは家族の世話もあったし、随分と苦労したと思う。その後、別れることになった」という。それでも、裕治さんはキャップが活躍したおかげで、母のホワイトナルビーを見学に来た女性と再婚することができた。裕治さんが亡くなってからも、妻の知恵さんは娘さんたちと立派に牧場経営を続けて、強い馬づくりに励んでいる。

オグリキャップの生まれ故郷・稲葉牧場

 ■「笠松の方に足を向けて寝られない」

 キャップが生まれた時、鷲見さんは牧場へ見に行った。幼名はハツラツで、右前脚がちょっと外を向いており「外向」だったため、4本脚で踏ん張ってうまく立てなかった。それでも鷲見さんは「いい子どもが出たなあ」と思ったそうだ。ホワイトナルビーは乳の出があまり良くなく、子馬に授乳することを嫌がることもあったが、スタッフが工夫して乳を飲ませていた。「その後、ナルビーはローマンなど何頭も産んで、かわいがって乳を飲ませるようになった」という。

 「キャップの活躍で牧場は全国に名を売った」。レースで勝利を挙げれば、中央では生産者にも「生産牧場賞」が出るから、稲葉牧場も厩舎を新設して大きくなった。鷲見さんによると「稲葉さんは『笠松の方に足を向けて寝られない』と言っていた」そうだ。(次回に続く)


 ※「オグリの里 聖地編」好評発売中、ふるさと納税・返礼品に

 「オグリの里 笠松競馬場から愛を込めて 1 聖地編」が好評発売中。ウマ娘シンデレラグレイ賞でのファンの熱狂ぶりやオグリキャップ、ラブミーチャンが生まれた牧場も登場。笠松競馬の光と影にスポットを当て、オグリキャップがデビューした聖地の歴史と魅了が詰まった1冊。林秀行著、A5判カラー、200ページ、1300円。岐阜新聞社発行。岐阜新聞情報センター出版室をはじめ岐阜市などの書店、笠松競馬場内・丸金食堂、名鉄笠松駅構内・ふらっと笠松、ホース・ファクトリーやアマゾンなどネットショップで発売。岐阜県笠松町のふるさと納税・返礼品にも加わった。