炭になった配給米を手にする篠田隆夫さん=2日、岐阜市養老町
篠田隆夫さんの父権一が袋に書き残した文字

 真っ黒な炭の塊になった配給米が、1945年7月の岐阜空襲の火災のすさまじさを物語る。当時13歳で、岐阜市柳ケ瀬の目抜き通りから焼け出された篠田隆夫さん(91)=同市養老町=が、父親から引き継いだ戦争の遺物。78年の歳月を経て、9日に市内で開かれる戦争体験を語る会合で公開する。

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 保存していたしわくちゃの紙袋には、篠田さんの父権一(ごんいち)の「焼けた配給米の一部」の文字。貴重な食料を守るため、一升瓶のまま水を張った風呂に漬けていたが、猛火で炭になったと後に聞いた。

 篠田家は、柳ケ瀬本通りにあった呉服店「笹権呉服店」を営んでいた。衣料品が配給制になっても、もんぺや布団地も扱い、従業員13人を抱え盛況だった。「戦争中でも柳ケ瀬は映画館が営業していて、まだまだにぎやかでしたよ」

 45年7月9日夜。旧制中学2年だった隆夫さんは、鉄かぶと姿の父、防空頭巾をかぶった姉と店を守るため残った。

 やがて空襲警報が鳴り響き、照明弾で夜空が明るくなる。「ザーッ、ザーッ」と焼夷(しょうい)弾が降り注ぐ音が続き、岐阜駅のある南や西の空が明るく染まった。柳ケ瀬に直接の投弾はなかったとみられるが、周辺からの延焼で火の手が迫っていた。「お前らも最後までおったら死んでまう。もう逃げよ」と警防団員に言われ、ようやく逃げた。

 岐阜の街並みは一夜で失われ、洋館風のモダンな外観が自慢だった「笹権」も戦災を機に廃業した。被災家屋は当時の市の総戸数の半数の約2万戸、死者約900人、被災者は10万人に及んだ。

 焼け跡から持ち出された約8センチの炭の塊は、米粒の形がそのままで、裏返すと一升瓶の跡の曲面が残る。配給米はほぼ未精米のため、瓶の口から棒でついてぬかを落とした時代背景も今に伝える。

 44、45年当時の岐阜市の食料事情を記した「昭和食糧飢饉(ききん)の世相覚 春秋庵日記」(岐阜市史史料編収録)などによると、米の配給量は大人1人当たり1日2合1勺(しゃく)(約300グラム)と定められていたが、「消費都市に於(お)いては遅配、欠配が数日間続く」「各家庭は蔬菜(そさい)七分に米麦三分の雑炊食となる」との記述から、市民の困窮がうかがえる。

 岐阜空襲を記録する会の篠崎喜樹代表(88)は「配給は次第に減らされ、麦やイモで増やして食べた。食料不足の厳しさはむしろ戦後に増した」と振り返る。

 「家族の命を守るための、なけなしの米だったのだろう。父が遺した思いを感じ取ってほしい」と話す篠田さんは、9日午後2時から岐阜市司町のみんなの森ぎふメディアコスモスで開かれる「戦争体験を語り継ぐ夕べ」(おもと会主催)で空襲体験を証言する。