戦後に再建された石碑が立つ「濃姫遺髪塚」。ムクノキには「お濃之墓」の案内板。堂守の中島和彦さんが定期的に花を供えている=岐阜市不動町
遺髪塚の前で、濃姫の生涯について思いを巡らす内堀信雄さん=同
濃姫遺髪塚の向かいには、織田信長が岐阜の街を守るために整備した「岐阜四天王」の一つ「西野不動」=同
金箔瓦が出土した織田信長居館跡(中央奥)。2階に濃姫の部屋があったとみられている=同市、岐阜公園
清洲公園に立つ濃姫の銅像=愛知県清須市

 岐阜市不動町、路地が入り組む住宅街の一角に、ムクノキの巨木が立っている。根元には高さ1メートルほどの石碑。幹には「お濃之墓」と記された案内板が添えられている。「マムシ」と呼ばれた斎藤道三の娘で、織田信長の妻となった濃姫の遺髪が、この地に埋められたと伝わる。

 向かいには、信長が岐阜の街を守るために配置したとされる西野不動がある。「本能寺の変で信長と共に死んだ濃姫の遺髪を、家臣が美濃へ持ち帰り『岐阜四天王』の一つである西野不動に埋葬した」。近くに住む堂守・中島和彦さん(87)が、地元に残る伝承を教えてくれた。

 戦前は不動の境内に小さな墓石があったが、太平洋戦争時の岐阜空襲で一帯は焼失。戦後、焼け残った木の下に氏子有志らが現在の碑を再建したという。

 濃姫に関する史料は少なく、そもそもいつどこで没したか分かっていない。尾張へ嫁いだ直後に亡くなった「早逝(せい)説」や、江戸時代まで生きた「長期生存説」など諸説ある。

 謎多き濃姫。遺髪は美濃に戻ってきたのだろうか。市文化財保護課の内堀信雄さん(64)は「当時の美濃の人々にとって、濃姫は特別な存在だった。そうした思いが伝承につながったのではないか」と想像を巡らせる。

 濃姫の美濃での影響力を示すエピソードがあるという。内堀さんが注目するのは、1569年に岐阜を訪れた京都の公家・山科言継(ときつぐ)の日記にある、信長の「名物狩り」に関する逸話。それによると、岐阜に居を移して間もない信長が、斎藤義龍の未亡人が持つ名物茶器を欲しがった。未亡人は、無理やり奪えば「信長本妻」につながっている斎藤一族、その家臣の美濃衆の抵抗に遭うことを示唆し、突っぱねた。ついに信長は、茶器を諦めたという内容だ。

 信長が、濃姫と美濃の武将たちに気を使っていた様子を想像させる。内堀さんは「美濃生まれの濃姫は、城下の人々にとってシンボル的存在で、信長はそこに乗っかるかたちで美濃を統治した。そう思うと、岐阜県民としてはロマンが広がる」と語る。

 遺髪塚は、不動町や西野町などの住民らが世話をし、いつも真新しい花が供えられている。毎年8月には読経が行われ、今も岐阜で守り継がれている。

アクセス:岐阜市役所から徒歩で5分ほど西野不動前の巨木

  概要:石、高さ約1.1メートル

※名前、年代、場所などは諸説あります。