織田信長亡き後、徳川家康と羽柴(豊臣)秀吉が直接対決した「小牧・長久手の戦い」。決戦は半年に及び、美濃も舞台になった。秀吉が仕掛けた「竹ケ鼻城の水攻め」だ。城は秀吉が得意とした水攻め戦法の「餌食」となった。
羽島市竹鼻町の羽島郵便局向かい、細い道沿いに「一夜堤の跡」と記された小さな標柱が立っている。このほか蒲池交差点、市営斎場、今町交差点付近にも同様の碑。地図上で4カ所をつなぐと、竹鼻町中心街を囲むように巨大な半円になる。その内側に、かつて竹ケ鼻城があった。
「小牧・長久手」は天正12(1584)年3月、尾張を主戦場に勃発。秀吉は、長久手の一戦で敗北を喫すると、戦場を西へ移して家康を引きずり出そうとした。5月7日に織田・徳川方に属する美濃の加賀野井城(同市)を落とすと、竹ケ鼻城を標的に。わずか数日で城を囲うように高さ約3メートル、全長3キロほどの堤を築かせると、近くを流れる旧木曽川支流から水を引き込んだ。そして、堤の周りを大軍で取り囲んだ。
旧暦5月は梅雨時で、川の水量も多かったことだろう。水は、城の二の丸まで押し寄せ、町家は1メートルほど水に漬かったとの記録が残る。「竹鼻守城録」や当時の書簡などには「城内ではいかだを組んで対処」「逃げ場を失ったねずみやへびが町家に侵入して子女を悩ませた」といった描写もある。
竹ケ鼻城主の不破広綱(源六)は、織田信雄への忠義を守って約1カ月近く籠城を続けた。その間に何度も家康や信雄に助けを求めたが援軍は現れず、ついに6月10日、家臣の助命を条件に城を明け渡した。
「2強決戦」という歴史の波にのまれた町。その痕跡をたどった。同市福寿町の「太閤山跡」は、秀吉が陣を置いたと伝わる場所。今は削平され平地になっているが、当時は高さ6メートルほどの丘になっていたという。竹鼻別院西方付近にあったとされる竹ケ鼻城の形跡は今はなく、市歴史民俗資料館前に城跡の碑がたたずむのみだ。一方、広綱らを苦しめた秀吉の「一夜堤」の一部は、道幅の狭い生活道としてわずかに名残をとどめている。
【勝負の分岐点】情報戦、実質「引き分け」
「竹ケ鼻城の水攻め」を巡る両軍の思惑や成果について、歴史研究グループ「竹ケ鼻城クラブ」代表で元羽島市歴史民俗資料館長の後藤昌美さんに聞いた。
小牧・長久手の戦いの後半のヤマ場。武力ではなく「外交・情報戦」だった。
秀吉は、戦力差から簡単に落とせる城をわざわざ水攻めという派手なやり方で攻略した。その裏には、長久手での敗北を消し去り、勝利を印象付けるパフォーマンスの意味合いもあったと感じる。
一方の家康は、援軍を送っても勝機はなかっただろう。無理な戦をせず、力をためたことで、のちの「関ケ原」での勝利へとつながったと捉えることもできる。また、城主である不破広綱は、城を明け渡したが、助命され自軍の損害も少なかった。広綱の視点で考えると、この戦いは「引き分け」とも言えるのではないか。
地方の城主や豪族たちも、日本を二分する大きな流れに組み込まれ、それぞれの判断を迫られた。広綱は、秀吉の甘い誘いに乗らず主君への忠義を貫き、両軍と駆け引きをしながら最後は家臣の命を守るため城主として大きな決断をした。その魅力ある生きざまにもぜひ注目してもらいたい。