八日町地区に残る江馬輝盛の墓。北飛騨の名門をしのんで江戸期に地元の住民が再建した=高山市国府町
大坂峠へ向かう旧道上り口付近に立つ十三士の墓。墓石には「無縁聖霊墓」と記されている=同
江馬輝盛の墓の横には、自刃するために腰かけたと伝わる切腹石もある=同
戦いで命を落とした重臣たちを弔う「江馬家臣十三士之碑」。地元の八日町町内会が毎年4月に供養祭を開いている=同

 岐阜県高山市国府町の八日町地区。荒城川沿いの山あいで戦国末期、「飛騨の関ケ原」といわれる決戦があった。2大勢力だった江馬輝盛と三木自綱(みつき・よりつな)が激突した「八日町の戦い」。三木が勝利し、群雄割拠の“戦国飛騨”を統一した。織田信長が本能寺で討たれた半年後のことだ。

 八日町から同市上宝町方面へ抜ける大坂峠。地元では「十三墓峠」と呼ぶ。八日町の戦いで敗れた江馬の重臣たちが次々と命を絶ったことに由来する。峠の入り口近くには「江馬家臣十三士之碑」が立ち、背面には13人の名前が刻まれている。

 江馬氏は、南北朝期ごろから高原諏訪城(飛騨市神岡町)を拠点に飛騨北部を統治。一方の三木氏は、戦国期に南飛騨から高山盆地へと進出し、織田や武田、上杉の動きと絡みながら飛騨の覇権をうかがった。武田も滅び、信長の脅威もなくなった天正10(1582)年10月、決戦の火ぶたが切られた。

 同時代史料となる寿楽寺大般若経奥書によると、先に動いたのは江馬。いったん古川盆地へ進出したものの、自領の梨打城(高山市国府町)まで退いた。そこへ三木が、古川地域で勢力を張る姉小路(あねがこうじ)一族の古川、小島、向の3家の軍勢と共に、一気に攻めかかった。結末は「輝盛討死」「長(おとな)衆数多戦亡」。江馬軍は総大将と多くの家老を失い、総崩れ。勝負は短時間で決したようだ。

 江戸期に書かれた軍記物では「三木勢が千、江馬勢は300」との戦力差。ほかに、信長と懇意だった三木が、飛騨の戦で初めて鉄砲を使い、騎馬主体の江馬を圧倒したとの逸話も伝わる。

 国府町の八日町地区には江馬輝盛の墓と、輝盛が最期に腰かけたと伝わる切腹石が残る。さらに「十三士之碑」の近く、大坂峠の旧道沿いには「無縁聖霊墓」と書かれた小さな墓石が立つ。輝盛の後を追った重臣13人の墳墓を、集約して弔ったものとされる。

 彼らの亡きがらは安国寺住職によって葬られ、墓標として峠道付近に木が植えられた。峠に点在していたことから「十三本木峠」と呼ばれ、のちに「十三墓峠」になったともいわれる。イチイの木の元にひっそりとたたずむ墓碑は、飛騨史の分岐点となった決戦の記憶を今に伝えている。

【勝負の分岐点】三木が数の力で圧倒か

 飛騨の戦国期を終わらせた「八日町の戦い」。合戦の背景や勝敗の分かれ目について、安国寺(高山市国府町)住職で学芸員の堀祥岳さんに聞いた。

 三木はもともと飛騨南部の益田郡を拠点にしていたが、大永年間に高山盆地まで勢力を拡大。三木自綱は、姉小路3家(小島、古川、向氏)や広瀬氏とも協力関係を持ち、飛騨北部を領地とする江馬をけん制しつつ、飛騨の統一を狙った。

 江馬もだまっておらず、合戦前日には古川盆地の小島城(飛騨市古川町)へ攻め寄った。戦いには至らず、停戦に合意して自領の梨打城付近まで撤退した。おそらくそこへ、三木が奇襲をかけ、合戦の幕が開けたと考えられる。

 舞台となった荒城川筋は江馬の領内。輝盛としては、自分のテリトリーでの戦いで、地の利はあったはずだった。ところが、三木側には姉小路一族に加え、広瀬氏も加勢した。三木側に、戦力面で圧倒的な優位性があったことが想像できる。

 この一戦で「飛騨の統一」を果たした三木だが、その後、豊臣秀吉が派遣した金森長近によって追討される。八日町の戦いからわずか3年後のことだ。