自身が経験した戦争の悲惨さを語る杉山幹夫岐阜新聞社最高顧問=7日午後2時6分、岐阜新聞本社(撮影・坂井萌香)

◆間違い指摘できる新聞必要

 「あまりにも美しい残骸だった」。戦時中、勤労動員で各務原の陸軍航空廠(しょう)で飛行機の製造や修理に携わった岐阜新聞社最高顧問の杉山幹夫さん(98)は、繰り返し空襲に遭った名古屋で、墜落した米軍のB29爆撃機の破片に触れた時の衝撃が忘れられない。折れた翼やコックピットの底部、胴体の一部。ばらばらになった機体の各部はどれもつややかで、頬ずりしても痛くなかった。むき出しのジュラルミン地には無数の鋲(びょう)が等間隔に打たれ、芸術性すら感じた。「レベルが違いすぎていた。この戦争には勝てないと思った」

 1944年5月、旧制中学5年の頃。文部大臣通達で学校閉鎖が言い渡され、校長から「覚悟して行け」と陸軍航空廠への勤労動員を告げられた。休みは月2回。「牛や馬のように...