鍵谷英一郎さんインタビューの3回目は母校・県岐阜商編。学校創立100周年だった2004年、2年後の06年と、就任6年で2度の甲子園出場を果たした監督時代の秘話を聞いた。

 鍵谷英一郎(かぎや・えいいちろう) 1967年、可児郡御嵩町生まれ。小学4年で、岐阜県高野連の審判だった父親が立ち上げた伏見スポーツ少年団で野球を始める。左投手。県岐阜商から愛知学院大を経て、1990年に岐阜県で教員に。中津商、土岐紅陵を経て2003年から母校の県岐阜商で監督。学校創立100周年の04年と06年に夏の甲子園に出場。その後は武義、中津商、東濃実、県岐阜商、岐阜各務野に勤務。岐阜県高野連の中濃・飛騨支部長、会計を経て20年から6年間、専務理事として岐阜県高校野球の発展に尽力。今春、退職し、来年、独立リーグ加入を目指す「岐阜ダイヤモンドリバーズ」を運営する「Green Light Project」の副社長・野球事業部長として岐阜県初のプロ球団の立ち上げに取り組む。
2004年の甲子園初戦を前にインタビューに応える県岐阜商監督時代の鍵谷英一郎さん=甲子園

 ―県岐阜商の監督になられたのは学校創立100周年の前年の2003年なんですね。

 鍵谷 赴任して部長になってすぐの春季県大会初戦の関商工戦。相手の監督はこの後、県岐阜商で部長になる高校の先輩の石榑淳先生。6―1で勝っていて八回に一挙8点取られて、結局8―9で負けた。負け方も負け方だったので、騒ぎになった。校長だった恩師の小川信幸先生に「とにかく、部長として、やるべきことをしっかりしなさい」と言われた。

 自分の役目は母校の建て直しだと理解していたが、なかなか部がうまくいっていなかった。練習試合のダブルブッキングとか当たり前のようにあって、前の部長や監督が同じ日にそれぞれ試合を入れていた。相手にも迷惑がかかるといけないので、監督に連れていきたい選手を選ばせて、残りの選手で自分が監督して試合もした。

 そんな中、6月4日にグラウンドに電話がかかってきて、「今日から監督」と言われた。直前の就任だったので、ぎふチャンの伊藤伸久アナウンサーに実況で監督になって七十何日とか、ずっと言われていた。

 選手は西武に2巡目指名された黒瀬春樹ら、いい選手がそろっていた。自分が高校野球指導者をする中で歴代最強のチームだったと思う。

 ―岐阜大会は、3人がプロ入りし、初戦1試合10本塁打の最強チームの中京と準々決勝で対戦して惜敗したんですね。

 鍵谷 中京の4番の中川裕貴(元中日)に初回の3ランを打たれて、...