「野口さん、どうしちゃったんですか!」。夏の名古屋・大須。打ち合わせでリュックから大きな狐(きつね)のぬいぐるみを取り出した私を見て、写真家の三品鐘さんが言った。狐のぬいぐるみの名前は「ぬい」。この春から私の家の住人で、幼稚園の頃のリカちゃん以外にこれといった人形に触れてこなかった私の、ぬいぐるみデビューの1人目(?)である。
「今回は登壇を辞退させていただきます。理由は、打ち合わせ時に身体接触があったからです」。そんなメールを打ちつつ、打った後は「ぬい」を抱きしめる。身体接触という堅苦しい言葉を使ったのは、これ以上生々しい感情に自分を巻き込まないためだ。セクハラというほどでもなく、ノリのはずみの出来事はしかし、私を追い詰めていた。無垢(むく)でいることや無防備であること、素直であること自体が一つの罪悪になっていくこの時代をサバイブするために、言葉は硬く、1ミリの縫い目も間違えないように縫い合わされる。縫合を間違えたら一巻の終わりだ。
7月頭、SNSで或(あ)る女性俳優と男性俳優の間を飛び交ったトラウマとハラスメントというセンシティブワード。うっすらと開きそうになる古い傷口をそっと抑え、布団の中で何度も、--意識的にゆっくりと--呼吸する。タイピングに疲れた手首のこわばり。頭が締め付けられるような痛み。目を閉じて開け、「ぬい」を抱きしめる。
「ぬい」の毛並みは白くて柔らかい。すぐ汚れてしまう白は、だからこそ選んだ色だった。無垢であること、無防備であること、素直であること。そんなカードを切ったらもう呼吸もできない世界で、部屋では私は私の王国を作る。起きると朝が来て「ぬい」の毛並みを優しく、柔らかに照らす。息をしている。もっと息をしていい。深く水に潜るように。泳ぐように。硬いままの言葉と徐々に柔らかくなっていく心。「ぬい」を抱きしめ、もう一度潜るように呼吸する。
光のある方に向かうのは意外に勇気がいる。闇に塗(まみ)れて憎悪に身体(からだ)をひたす方がずっとたやすくて、飛び交うリプライをそっと開きながら、息を続けていた。メールには丁寧な謝罪の言葉。それで癒されるものと、もうこじ開けられてしまった傷口の痛みを朝の光が照らす。光のある方に向かうのは意外と勇気がいる。「ぬい」の毛並みを鼻先に引き寄せ、光に向かって大きく息をした。
(岐阜市出身)
のぐち・あやこ 1987年、岐阜市生まれ。「幻桃」「未来」短歌会会員。2006年、「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞。08年、岐阜市芸術文化奨励賞。10年、第1歌集「くびすじの欠片」で第54回現代歌人協会賞。作歌のほか、音楽などの他ジャンルと朗読活動もする。名古屋市在住。









