乗客数最下位争いの岐阜羽島「開業秘話」
ちなみに、岐阜羽島駅の開業経緯を挟むと、岐阜羽島は〝大物政治家の鶴の一声で田んぼの中に造った政治駅だ〟と、半ば都市伝説と化し、もはや収拾がつかなくなっている。おそらく、大半の人が、誰かに聞いた話をそのまま使っているに違いない。皮肉を込めて、だ。
ただ、出所がよく分からない話をやみくもに踏襲し続けるのも気持ち悪く、以前、その謎を探ったことがある。東海道新幹線が計画段階にあった頃の本紙を読み返し、当時国鉄職員だった現・JR東海顧問の須田寬氏(91)を取材した。すると、実際には政治駅どころか、ほとんど国鉄の意向通りに造られていた。
長いが、要約すると次の通りだ。まず国鉄は、最初から羽島に狙いを定めていた。名古屋―京都間が、鈴鹿山脈をトンネルで抜けるルートではなく、北陸3県からの要望もあった米原駅(北陸本線)に接続する関ケ原ルートで決定すると、関ケ原付近の雪対策で、除雪車の待機基地が必要になった。
その候補地として、名古屋―米原間の中間で、直線ルート上にあり、雪の影響が少ない羽島が浮上。一言でいうならば、待機基地も置くなら駅の機能も、東京―新大阪間に中間駅を設けるなら岐阜県にも―ということで、岐阜羽島駅が開業した。
ただ、岐阜県の政財界は、田んぼが広がる羽島ではなく、当初は岐阜市、その後は岐阜市寄りの北回りルートを要望。名古屋―米原間を最短距離で通したい国鉄と激しい綱引きを繰り広げた。
国鉄案は地盤の軟弱な羽島市最南端を通るルートだったため、最終的に、国鉄案と地元案の中間を通る現行ルートで決着したが、この時、当時の自民党副総裁で県内選出の衆院議員、大野伴睦氏が「新幹線は国家的問題で、岐阜県の都合だけで左右することはできない」と、地元の声を抑制していた。
つまり、岐阜市寄りの北回りルートを通す地元案の方がよほど〝政治的〟であり、もしそれが実現していたら、東京―新大阪間はいまよりも所要時間が長くなっていたかもしれない。
一方、旧城下町で産業都市の大垣でも、駅誘致運動は展開された。どの案でも大垣を通ったが、駅は置かれなかった。除雪車の待機基地を置くには広い敷地が必要で、市街地に近い大垣よりも田んぼが広がる羽島の方が、土地取得が容易だったからだ。それらは、除雪車の待機基地を兼ねた岐阜羽島駅の線路が6線あり、ほかの中間駅の4線より広いことからも伺い知れる。
待機基地の機能を確保した上で駅の機能を―という手順だったため、まちの規模よりも土地の確保が優先されたというわけだ。雪も、大垣よりも羽島の方が降らないため、影響は少ない。
ではなぜ、政治駅と呼ばれたのか。それは、最初に東海道新幹線の設置駅が発表された時、羽島の名前がなかったからだ。そして、その3日後に羽島を入れた案が再度出された。ここに大野氏の関与が疑われ、国会で野党の追及を受けた。「羽島市は人口わずか4万人ぐらいで駅としては利用度が低いのではないか」「県民のためのサービスではなくて政治的圧力ではないのか」と。
対して国鉄総裁は「政治的な問題ではなく、国鉄経営の技術的な見地から決めた」と答弁。前述した除雪車の待機基地を念頭に置いての発言だろう。運輸相は、政治家らしく「自分の県を新幹線が通るのに県内で停車しないというのは人情にそむく」と語った。
これについては、急きょ物言いが入ったわけではなく、すでに待機基地に駅の機能を持たせることは決まっていたとの見方もある。実際、遠回りして岐阜市に引っ張ることは難しくても、待機基地を置くなら、そこに駅を―というのは不自然な交渉ではない。
いずれにしても、直線ルート上の羽島にとどめた国鉄。水面下で、地元を説き伏せたのは、大野氏の〝鶴の一声〟だった。岐阜羽島の駅前公園に大野夫妻の立像があることも後押しし「岐阜市ではなく羽島に造った」「人口の少ない田んぼの中に造った」と〝我田引鉄〟の象徴のように語られるが、実際には、地元ではなく国家的な視点を優先したのが大野氏だったのだ(参照=2020年10月11日付・岐阜新聞記事「ぎふ そもそもなぜ 岐阜羽島駅決定は〝鶴の一声〟? 雪と土地が最大の理由」)








