名古屋の上前津の駅前で散々迷った末、タクシーを拾った。割増料金の赤が点滅するこれで帰れば、余裕で5000円は飛んでいくだろう。ドアが開かれるとタクシー特有のむわんとした暖房の匂いと、きっとさっきまで乗っていた乗客の気配が感じられ、疎ましくも暖かい。ドアを閉めて深呼吸すると、やっぱり涙が溢(あふ)れた。泣くな。そう自分に念じながら鼻をすすってはため息を繰り返すうちに、やっぱり涙は溢れてくる。

 

 「どうしたの、お客さん、大変そうだねえ」

 気遣ってくれたのだろう、タクシーの運転手はバックミラー越しに言う。

 「話したほうが楽になるなら聞くよ」

 「いやいや、ここのところ忙しくて、疲れてるんです」

 こんなところで話したほうが楽になる話なら、とっくに誰かに話している。それでもやっぱり気遣われると嬉(うれ)しいものだ。急に何か話したいような気分になった。

(撮影・三品鐘)

 「もう予定キツキツで。タクシー拾えて助かりましたよ」「いやいや、何のお仕事なの」「大学で教えたりとか」「ほお、教授さんか。これは失礼しました」「いやいやペーペーですよ」「体調悪いの」「あー、そうですね、ちょっとここのところお腹が痛くて」「あー、女性は、大変だよねえ」。痛いのは胃腸の方だけれど、この憂鬱(ゆううつ)さはやっぱりホルモンバランスと関係があるのだろうか。「今日はゆっくり休んでくださいねえ」「あー、ありがとうございます、何から何まで」

 そうだ、帰ったらまずメークを落として、お風呂に入って…けどそれは朝でもいい。でもタバコもお酒も入っているからビタミンのサプリはとって、パジャマに着替えて布団にダイブしよう。明日は明日で仕上げなきゃいけない原稿も溜(た)まっている、メールもあるし、夜は夜で予定がある。憂鬱に染まっている暇はない。

 じゃあこの憂鬱とは、いつ向き合えばいいんですかねえ。と自分に問えば、うーん、考えずに旅行でも行けば? と言う声が返ってくる。憂鬱な自分以外の自分はいたって正常だ。それがなんでこんなに寂しいのだろう。タクシーが最寄りの駅まで着く。進路を説明してもう一度座席にもたれる。日々。日々。こうしてやり過ごしていくのだろうか。


 岐阜市出身の歌人野口あや子さんによる、エッセー「身にあまるものたちへ」の連載。短歌の領域にとどまらず、音楽と融合した朗読ライブ、身体表現を試みた写真歌集の出版など多角的な活動に取り組む野口さんが、独自の感性で身辺をとらえて言葉を紡ぐ。写真家三品鐘さんの写真で、その作品世界を広げる。

 のぐち・あやこ 1987年、岐阜市生まれ。「幻桃」「未来」短歌会会員。2006年、「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞。08年、岐阜市芸術文化奨励賞。10年、第1歌集「くびすじの欠片」で第54回現代歌人協会賞。作歌のほか、音楽などの他ジャンルと朗読活動もする。名古屋市在住。

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