岐阜県本巣市根尾の初鹿(はじか)谷、地元の人もあまり立ち寄らない山中にひっそりとたたずむ碑がある。「治水治山 金原明善翁之死 基偉業」。1891年の濃尾地震で壊滅的な被害を受けた根尾の山々を、緑の山へと再生させた"植林の父"金原明善(きんぱらめいぜん)(1832~1923年)の功績を伝える碑だ。2017年に発見されるまで、山奥で静かに「復興の山」を見守ってきた。
かんたん検索! 岐阜県・東海のイベント お出かけ情報総合サイト「ぎふっと!」130年前の10月28日早朝、濃尾平野一帯を激しい揺れが襲い、震源地の根尾では地面が6メートルも隆起。山々は、大鳴動とともに一瞬にして樹木ごと崩れ落ち、ことごとく裸山になったという。
甚大な被害には遠因があった。元本巣郡根尾村長で元もとす郡森林組合長の所和徳さん(87)=同市根尾長嶺=は「明治維新後の森林乱伐が影響した」と語る。江戸期、根尾では段木(つだ)と呼ばれた薪(まき)を大垣藩に納めていたため、藩によって山の管理が行き届いていた。明治に入ると、現金を得るための商業用木材となり、会社が次々と設立されて競争が激化。乱伐が進んで「山林が荒れていたところに濃尾地震が襲った」(所さん)。
県が根尾の惨状復旧に動いたのは地震から6年後。県知事湯本義憲が1897年、天竜川上流の植林事業などで知られた静岡の実業家の明善を招聘(しょうへい)した。根尾村史などによると、根尾谷の調査を行った明善は「山岳崩壊や土砂流出の跡が想像以上ですぐに対策が必要」と判断。政府へ上申書(建白書)を提出し、明治天皇の内勅を取り付けると、翌年からスギやヒノキの植林をスタートさせた。
ところが、当時の岐阜県では苗木生産が進んでおらず、明善は自己資本を投入し、静岡の「金原林」の苗を無償で提供したという。所さんは「当時の根尾の人々は植林という知識がなく、私の祖父も一から『山造り』を教わった。おかげで、こうして今も青々とした山がある」と話す。
"根尾の金原林"は戦前、木材生産で地元を潤した。ところが戦後は、安価な外国産材が大量に輸入され、国産材の需要が激減。さらに近年は過疎化が進んで山を管理する後継者がどんどんいなくなっているのが現状だ。所さんは「間伐など手入れをせずほったらかしにすると山が荒れ、また災害の"もと"になってしまう」と憂う。
初鹿谷の碑には「永久に生く 翁の心や 山笑ふ」との文言。4年前、化石探しの案内中に偶然、碑を発見した根尾公民館の三本木隆館長(67)は「山笑ふには、木々が風に揺れている、つまり明善さんの精神がそこに生きているという意味も込められているのではないか」と思いを巡らす。
碑は明善と直接関わった人たちが建立したとみられ、背面には「昭和14年春」と4人の名前とともに「明善翁の思いを継ぎ、この山林での植林を続けていく」との決意が刻まれている。発見後に三本木館長が地元の人たちに尋ねたが、この碑の存在を知る人はいなかったという。今年で被災130年。三本木館長は「この碑のように、いずれ明善さんの名前さえも忘れられてゆくかもしれない。130年という節目を機に改めてその功績を多くの人に知ってもらえたら」と話している。
【金原明善】 明治、大正時代の実業家。静岡県を中心に、植林事業を展開した。天竜川では私財を投じて堤防を築くなど治水に尽力。さらに「治水の源は治山である」と、上流域などの植林に力を注いだ。そのほか北海道開拓などでも功績を残した。















