百年記念通り沿いに立つ安藤守就「戦死地」の碑。北方町文化財保護協会が清掃や案内をしている
今は住宅街になった場所に残る北方城阯
百年記念通りから戦死地碑への動線は、旧名鉄揖斐線の線路跡
県史跡として整備されている「守就戦死地」=いずれも本巣郡北方町北方

 岐阜県本巣郡北方町、住宅街の一角にひっそりと「北方城阯(じょうし)」と記された石碑が立つ。約440年前、本能寺の変の直後にこの城は戦火に包まれた。西美濃の“両雄”による「北方合戦」だ。旧城主の安藤(安東)守就が領地回復を期して挙兵したが、稲葉一鉄(良通)によって阻まれた。

 守就と一鉄は、土岐氏や斎藤道三、織田信長に仕えた美濃の有力武将で、氏家ト全(直元)を加えた「西美濃三人衆」として知られる。北方城はもともと安藤氏の居城だった。ところが、本能寺の変の2年前、信長から武田氏への内通嫌疑をかけられ領地を没収。守就は関市の寺に蟄居(ちっきょ)を命ぜられ、北方は一鉄に与えられた。

 

 天正10(1582)年6月2日、本能寺の変。信長が討たれた機に乗じて、守就は北方城奪還へ向かった。挙兵はわずか2日後だったとも伝わる。動きを知った一鉄は阻止すべく現在の瑞穂市宮田あたりに布陣。息子の貞通も曽根城(大垣市)から合流したという。

 美濃明細記や北方町史などによると、戦いは同7日に現在の瑞穂市本田付近で始まった。序盤は安藤軍が優勢だったが、稲葉の精鋭80騎が駆け付けると形勢が逆転。一気に北方城下へ攻め込まれた。守就は、息子の尚就らとともに勇敢に戦ったが、稲葉軍の猛攻を受けて城は陥落。翌8日に近くの「千代母ケ淵」で討ち死にしたという。信長の死をめぐる明智光秀と豊臣秀吉の「山崎の戦い」よりも5日も前の出来事だ。

 城跡から西へ約800メートル。守就が非業の死を遂げたとされる場所には歴史を伝える碑が建てられ、県史跡として整備されている。説明板によると守就は当時84歳。人生最後の力を振り絞った一戦だったことだろう。守就の亡きがらは、一鉄の指示で手厚く葬られたとも伝わる。  道三や信長の下で乱世を駆け抜け、父祖の地を守るため散った守就。共にしのぎを削った盟友を返り討ちにした一鉄。戦場の二人の胸に去来したものは―。「戦国美濃」の一こまに思いをはせた。

【勝負の分岐点】素早い挙兵、光秀と連携?

 美濃で名をはせた二人が激突した「北方合戦」。勝敗の分かれ目や合戦を巡る謎について、北方町文化財保護協会理事の安藤浩孝さんに聞いた。

 戦死者は稲葉軍の方が多かった。安藤軍は大善戦したが、最後は数で圧倒された。書物には、安藤軍は「三段構えで防いだ」との記述がある。守就は、枡形(ますがた)の道路など自身が築いた町の防御機能をうまく使うことができたのではないか。

 北方城は平城で、土塁が盛られただけの造りだったと考えられている。山城と違って、囲まれると守り切ることは難しい。城下に攻め入られた時点で負け戦になった。

 それにしても守就の挙兵が早すぎる。まるで本能寺の変が起こることを知っていたかのようだ。謹慎の身で、兵や武器をどう集めたのか。どこかから援助を受けていたとしか考えられない。

 だとすると、明智光秀の名前が浮かぶ。ともに美濃の「もののふ(武士)」としての誇りを持った男として、通じ合っていたのではないか。守就が混乱を起こすことで、明智追討に向かう美濃勢を足止めさせて、光秀を手助けしたのかもしれない。証拠はないが、歴史ロマンは膨らむ。