上村合戦で武田軍の拠点となった前田砦(左手前の山)。旧中馬街道を見下ろし、岩村と信濃の往来を確保するための重要拠点だった=恵那市上矢作町
景行が最期を遂げたと伝わる山中に、ひっそり立つ「遠山塚」。領地の明知を目指し、力尽きたのだろうか=恵那市上矢作町
遠山景行らが布陣した岩井戸砦跡から望む合戦地。奥が信濃方面。約450年前、この狭い谷筋に両軍がひしめきあっていたことだろう=恵那市上矢作町
前田砦跡には、上矢作の中心部から登ることができる。尾根を貫く巨大な堀切が特徴の山城で、武田方が築いたと考えられている=恵那市上矢作町
上村合戦の舞台の一つ、城山砦跡

 今年のNHK大河ドラマの主人公・徳川家康の“三大危機”の一つとされるのが「三方ケ原の戦い」。遠江で武田信玄に大敗した。同時期、同盟を組む美濃でも対武田の“場外戦”が起こっていた。岩村城(恵那市岩村町)をめぐる「上村(かみむら)合戦」だ。東美濃の諸将が総出で戦ったが、武田軍に敗れた。

 山に囲まれた同市上矢作町。狭い谷筋に沿って戦国期の三つの砦(とりで)跡が残る。その一つ岩井戸砦は、元亀3(1572)年12月の上村合戦で、東美濃衆の大将・遠山景行が布陣したと伝わる地。眼下は、今も2本の国道が結節する街道の“交差点”。かつては信濃へ抜ける「中馬街道」、三河・遠江へ通ずる「秋葉街道」と呼ばれ、北は岩村につながる。美濃国境の防衛にとって重要地であったことが分かる。

 

 岩村周辺では戦国期、武田と織田が激しい陣取り合戦を繰り広げた。1550年代、信玄が信濃で勢力を伸ばすと、国境を接する美濃の国衆遠山氏は武田に従属した。元亀3年10月、信玄が徳川攻めに出陣すると、家康と同盟を結ぶ信長は遠山氏を寝返らせ、東美濃を制圧した。ところが、11月に、“女城主”のいた岩村城が再び寝返り、単独で武田に復帰してしまった。

 岩村を拠点に美濃を狙う武田に対して、周辺国衆たちが奪還に動く。その背後には信長の命令があってのことだろう。明知城(同市明智町)の遠山景行、小里(おり)城(瑞浪市)の小里光次らは、信濃と岩村の補給路上となる岩井戸砦に進軍。前田(ぜんだ)砦、城山(じょうやま)砦に詰める武田軍と対峙(たいじ)した。決戦は12月28日。22日の三方ケ原の戦いで勝利した武田の援軍が、秋葉街道を北上して駆け付けると、東美濃衆は総崩れに。指揮する小里、遠山両氏も敗死したという。

 岩井戸砦跡から西へ入った深い山中には「遠山塚」と刻まれた碑が立つ。説明看板によると、景行は数人の兵と血路を開いて落ち延びたが力尽き、自刃した地。近くには、敗走する一行が石に槍(やり)を突き刺して湧いた水でのどを潤したという湧水跡「一杯清水」が残る。これらは対武田の最前線にさらされた景行の無念の最期を伝えている。

【勝負の分岐点】岩村城を巡る「第1戦」

 東美濃衆の大敗となった「上村合戦」。勝敗の分かれ目や背景について、恵那市教育委員会生涯学習課の三宅唯美さんに聞いた。

 合戦は真冬。遠山景行らは、雪深い信濃から武田軍が来ることは難しいと考えていただろう。想定外だったのは、三方ケ原の戦いが早期に決着したこと。武田軍は、秋葉街道を北上し、遠江からわずか数日で駆け付けることができた。もし、三方ケ原がもっと泥沼の大合戦になっていれば、東美濃衆が有利な展開に持ち込めていたかもしれない。

 私は上村合戦を、織田信長と武田の3年にわたる岩村城攻防の「第1ラウンド」と位置づけている。この合戦で信長は、東美濃で武田への離反の連鎖を起こさず、岩村城以外の国衆を織田方で固めることができた。局地的には敗北だったが、武田の本格的な美濃侵攻は阻止し、その後に岩村城を奪還する。大局的に見れば、信長には収穫もあった一戦だったと言える。

 また、このタイミングでの戦に、やはり信長としては、遠江・三河を攻める武田の意識を多方に向けさせ、徳川を後方支援する意図もあったと思う。