パジャマと着替え、化粧道具をキャリーケースに入れて部屋を出て、名古屋駅まで向かう。けれど新幹線改札は素通り。向かうのは名古屋駅のマリオットアソシアホテルだ。

 「野口さん、ちょっともう休んだら?」。そんな声を聴くようになった。寝ても悪夢を見るし、食事も無理やりに喉を通している。イライラしたと思えば悲しくなったり、虚(むな)しくなったり。「病院に行ったら?」。そんな声を聞いて、ますます気持ちは萎(しぼ)むばかり。そんななか萎む心をぷうっと膨らますためにしたことが、この高級ホテルステイだ。

撮影・三品鐘

 ホテルステイ。この言葉を、最近あちこちで聴くようになった。だが流行(はや)っているわけではなくて、付き合っている人たちが変わったのだろう。旅行をするほどの時間はない、けれどリゾート気分を満喫したい人。あるいは丁寧な接客を受けてハイクラスのマナーを手に入れたい人。またはもうバッチリ海外旅行を楽しんで、スイートルームでのひとときを楽しむ人までさまざま。だが、共通しているのは、皆のもとに対等に訪れる時間と空間を、自分の力でスペシャルなものにしようする人たちということだ。

 25階のホテルの通路は静かで、しんと爽やかな匂いが漂う。部屋を開けると、窓からは新幹線の行き来が見えた。続いてバスルームを開けると大理石の床に、前を向くと金と白の大きな洗面台。その横には縦長の窓の下の広いバスタブ。大きく息を吸い、目を開けると、鏡の中にどんな御馳走(ごちそう)を食べた時より輝いた目の自分がいた。

 わたしの周りにはいつも、空間がある。当たり前のことだ。わたしの中にはいつも感情がある。それも当たり前だ。でもそれをどんなもので満たすかは自分で選べる。歩いてもいい。閉じこもってもいい。ため息をつくのもいいけれど、感歎(かんたん)の息を漏らす方がずっといいだろう。そう思いながら夜景の見えるバスタブを泡風呂にする。

 エスプレッソマシンでコーヒーを飲み、ラウンジに降りて軽く夕食をすませ、肌触りのいいシーツにふかふかのベッドでぐっすりと眠る。起きた頃にはもう全回復だ。いつもぼろぼろになるまで心臓を働かせているからこその、大事なご褒美。焦りも取れた。明日からすぐ頑張ろうとは言わず、そろそろゆっくりと。自分のベストに向かって歩いて行こう。


 岐阜市出身の歌人野口あや子さんによる、エッセー「身にあまるものたちへ」の連載。短歌の領域にとどまらず、音楽と融合した朗読ライブ、身体表現を試みた写真歌集の出版など多角的な活動に取り組む野口さんが、独自の感性で身辺をとらえて言葉を紡ぐ。写真家三品鐘さんの写真で、その作品世界を広げる。

 のぐち・あやこ 1987年、岐阜市生まれ。「幻桃」「未来」短歌会会員。2006年、「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞。08年、岐阜市芸術文化奨励賞。10年、第1歌集「くびすじの欠片」で第54回現代歌人協会賞。作歌のほか、音楽などの他ジャンルと朗読活動もする。名古屋市在住。

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