2010年7月、笠松競馬場内のオグリキャップ像前で別れを惜しむファンたち

 「地方競馬から出た馬はサラリーマンの夢。学歴なくても頑張っている人いるよ」「初任給であなたのぬいぐるみを買いました。支えになりました」。記帳に添えられた女性ファンたちの多くのメッセージ。オグリキャップに自分の人生を重ね合わせた熱い人たちが別れを惜しんだ。

 オグリキャップが2010年7月3日に天国へと旅立って13年。地方・笠松競馬から中央の舞台に駆け上がり、その波乱に満ちたストーリー性から「50年、100年に1頭」ともいわれるアイドルホースになった。漫画「ウマ娘シデレラグレイ」でも、マイルCSからジャパンCへの連闘が進行形だが、「最後まで頑張って走る姿に勇気をもらった」と多くのファンが胸を熱く焦がした。

 突然の悲報…。オグリキャップを愛した関係者やファンたちからは感謝の声があふれた。ラストラン・有馬記念Vでの伝説的な「オグリコール」は、笠松競馬場での引退式やお別れ会でもスタンドから沸き起こった。当時の岐阜新聞などの記事から、オグリキャップ永眠後1カ月のファンの動きを追った。

オグリキャップ像前には献花台と記帳台が設置され、全国から訪れたファンが雄姿をしのんで手を合わせた

 ■「オグリ、夢ありがとう」全国のファン献花

 笠松競馬が生んだ伝説の名馬オグリキャップの死から一夜明けた4日、競馬場内のオグリキャップ像前に、献花台と記帳台が設置された。県内外からファンが訪れ、雄姿をしのんで手を合わせた。
  
 献花台には、花束のほか、ニンジンやリンゴのお供えが置かれた。記帳に来た人たちは「たくさんの勇気をもらった。ありがとう」「安らかに眠ってください」などのメッセージを寄せ、中には東京や大阪から駆けつけたファンも。
  
 家族3人で訪れた瑞穂市の男性会社員(38)は「学生時代に東京競馬場で引退式を見たのが一番の思い出。突然のニュースに驚いた」と残念がった。岐阜市上川手の会社員の男性(52)は「笠松時代から知っているが、これほど有名になるとは思いもよらず、古里の馬が活躍してくれるのがうれしかった。きょうは、ありがとうと言いに来た」と死を悼んだ。 

「オグリ死す」と悲報を伝えたスポーツ紙

 ■アンカツさん「あれだけの馬もう出ない」 


 4日、JRAのレースを開催した函館、阪神、福島の各競馬場では現役時代の雄姿を大画面のターフビジョンで流した。
  
 函館競馬場の調整ルームでは、地方競馬の笠松競馬時代に騎乗し、7戦7勝だった安藤勝己騎手が「かわいい馬でした。あれだけファンの印象に残る馬はもう出ないでしょう」と無念の表情で名馬をしのんだ。

 ■スポーツ紙は1面で大見出し

 4日朝、コンビニでスポーツ紙(日刊スポーツ、報知スポーツ、中日スポーツ)を買い込んだ。各紙とも1面で「オグリ死す」の大見出し。そして「平成のスーパーホース」「競馬ブーム巻き起こした芦毛の怪物」「笠松が生んだ歴史的名馬」のサブ見出し。3日といえばサッカーW杯(南アフリカ大会)の真っ最中で、プロ野球では巨人、中日が敗れてはいたが、「オグリ死す」の1面トップは見出しまで同じで横一線。競馬界最大のヒーローの悲報は日本列島を駆け巡った。

 ■アンカツ、小栗さん「中央と地方の垣根」突き破った

 安藤勝己騎手は「やっぱり寂しい。ただ、種牡馬も何年か前に辞めて、牧場のアイドルホースとして余生を送ることができたんじゃないかな。笠松の名前を全国に知らしめて、中央と地方の垣根も切り開いてくれた。いまの自分があるのも、あの馬のおかげだと思う」と死を悼んだ。(日刊スポーツ)

 笠松時代の初代オーナーだった小栗孝一さんは「年齢が年齢だけに、常に心配はしていましたが、何しろ急なことで思いがけない訃報でしたから、びっくりして一瞬、言葉がありませんでした。ひと言では言い表せないぐらいにいろいろなものを与えてくれました。レースはすべて印象に残っています。今後、二度と持てないような名馬のオーナーだったことを幸せに思います。キャップがいたから中央と地方との垣根が取れてその後、交流も盛んになった。その意味でキャップの功績は大きかったと思います」と愛馬をしのんだ。(中日スポーツ)
          
 安藤勝己騎手も小栗孝一さんも「中央と地方の垣根」を突き破った走りをたたえている。地方出身馬でも中央のエリート馬をバッタバッタと倒しての「天下取り」は痛快で、ファンの心に突き刺さった。今では全国の地方競馬場でJRA交流戦やヤングジョッキーズシリーズが行われるようになったが、オグリキャップの「笠松発サクセスストーリー」は、日本競馬の近代化を進める上で歴史的な役割を果たしたといえよう。

オグリキャップ像前に並べられた追悼の花束

 ■風雪に耐えてきたオグリ像の前は「お花畑」のように

 笠松競馬場の正門横でファンを出迎えてくれるオグリキャップのブロンズ像。勇気と元気を生むパワースポットであり、存続を支える「笠松競馬の守り神」として、厳しい風雪にも耐えてきた。亡くなって4日後の7日夕方、笠松競馬場を訪れると、オグリキャップ像前は「お花畑」のようだった。

 「オグリよ、安らかに」と献花された花束が競馬場関係者の手できれいに並べられ、カラフルで華やかだった。「ガラケー」での撮影で画質は悪いが、貴重な写真となった。

 当時の携帯電話はまだガラケーの時代。スマートフォン(多機能携帯電話)が新聞の見出しでも「スマホ」と呼ばれ、日本社会に定着し始めたのは2011年。翌年10月にはJRAネット投票で地方競馬の馬券も買えるようになった。出走表が画面でも見られるスマホの普及とともに、ネット投票は飛躍的に伸びた。廃止寸前まで追い込まれていた地方競馬もあったが、V字回復を果たして息を吹き返した。オグリキャップの旅立ちとともに、日本の競馬界を巡る動きはターニングポイントを迎えていた。

ラストランとなった1990年の有馬記念を制覇したオグリキャップ(競馬ブック提供)

 ■響き渡る永遠のオグリコール、ホースマンやファンの心の支え

 有馬記念が近づくクリスマスシーズンはもちろん、ヒーロー伝説の競馬特番などで響き渡る永遠のオグリコール。

 オグリキャップ像がなかったら、笠松競馬場の灯はとっくに消えていただろう。経営難や不祥事による存続のピンチにも、笠松で働くホースマンやファンたちの心の支えになってきた。どんな苦境に立っても最後まで諦めないでゴールを目指す「オグリキャップ精神」は地方競馬場に息づき、きょうも全国のコースを駆ける競走馬やジョッキーたちの背中を押し続けてくれている。

 「社会現象」にもなって、昭和から平成へと時代をまたいで、競馬ブームの起爆剤となった国民的アイドルホース。若いファンの心もつかみ、オグリのぬいぐるみを抱えた女性ファンが声援を送る姿は一つの観戦ファッションにもなった。それまで「おやじのギャンブル」というイメージだった競馬に、おしゃれ感覚が加わり健全化。入場者、売り上げは飛躍的に伸び、ラストラン有馬記念には17万7000人が押し寄せた。 

2005年4月のオグリキャップ里帰りでは、ぬいぐるみと一緒に来場した女性ファンの姿が目立った

 ■「オグリのぬいぐるみが飛ぶように売れた」(岐阜新聞・分水嶺)

 オグリキャップ死す。「笠松の星」とか「芦毛の怪物」とも言われた伝説の名馬。北海道の牧場で放牧中、右後ろ脚を骨折して死んだ。25歳。バブル最盛期の日本を熱くしたオグリコールはもう天国でしか聞かれない。

 1985年に北海道で生まれ、87年に笠松競馬でデビュー。今は中央で活躍する安藤勝己騎手が手綱を取って連戦連勝。88年に中央に移籍、有馬記念を2度制するなどG1を4勝と大活躍した。

 特に90年の第35回有馬記念。秋の天皇賞、ジャパンカップと惨敗し、4番人気のラストランで武豊が騎乗して劇的な勝利を収めた。あの頑張り、歴史的復活の感動は記憶に深く刻まれた。

 当時、学生アルバイトとしてJRAで働いていたという同僚記者は「オグリのぬいぐるみが飛ぶように売れた。競馬経験が無さそうな女子大生や社会人もみんな買っていた」と証言する。

 初代馬主だった岐阜市の小栗孝一さんは「自分の人生を変えてくれた存在だった」、元調教師の郡上市の鷲見昌勇さんは「いい目をみさせてくれてありがとうと、手を合わせて拝みたい」と。感謝や哀悼の声が関係者やファンの間で波紋のように広がった。

 一説に笠松競馬場への坂道がオグリをつくったといわれるが、鷲見さんらによると、どうやら天性の競走馬だ。器が大きく、落ち着きがあった。笠松生まれの名馬伝説。永遠に語り継がれよう。

 ■女性記者「笠松を盛り上げ、励ましてくれている」(岐阜新聞・記者ノート)

 笠松競馬出身の名馬オグリキャップが逝った。競馬場には、9日まで献花台と記帳台が置かれ、多くのファンが、オグリキャップ像の前で写真を撮ったり、手を合わせて別れを惜しんでいる。
  
 競馬場の存廃問題が浮上した5年前、里帰りをして多くのファンを呼んでくれたオグリキャップ。記帳に訪れた人の中には「ニュースを見て、久しぶりに笠松競馬に来た」という県内の人たちも多い。引退して20年がたっても、オグリキャップは少しも色あせずに、人々の記憶の中で生き続けている。そして、笠松を盛り上げ、励ましてくれている。それを目の当たりにして、胸が熱くなった。

 笠松競馬ではまたレースが始まる。競馬場に足を運べば、ダートを駆ける馬を間近で感じ、馬と人とのきずなに触れることができる。オグリキャップほど有名にはなれないかもしれないが、そこで生まれる新たなドラマを伝えていきたい。
                

「オグリ、心に生きる」と全国での追悼記帳を伝える記事(2010年7月27日付・岐阜新聞)

中京競馬場にも記帳台が設置され、ファンが手を合わせていた

 ■記帳だけのため、中京競馬場へ

 記帳台は中京競馬場にも設置されていた。11日はレースがなく場外発売のみだったが、入場して真っ先に記帳台へ向かうと、若者たちが手を合わせていた。オグリキャップの現役時代のレース映像が繰り返し流されており、じっと見入ってしまった。「笠松からこんな強くて、愛される馬が出るなんて。夢のような時間をありがとう」と感謝の思いを伝え、記帳とともに冥福を祈った。中京では笠松時代にも芝レースで勝って、JRAへの扉をこじ開けた。そして初めて古馬に挑んだGⅡ時代の高松宮杯を制して重賞5連勝。「幻のダービー馬」の快進撃にファンは熱狂した。

笠松競馬場でのオグリキャップお別れ会(2010年7月19日付・岐阜新聞)

 ■笠松でもお別れ会、オグリコール再び

 「天国でも皆の希望を乗せて走り続けて」「あきらめない姿に勇気をもらった」―。19日、笠松競馬場で開かれた名馬オグリキャップのお別れ会。詰め掛けたファンは、笠松から全国に羽ばたき、多くの感動を与えてくれたオグリキャップの功績をたたえ、いつまでも別れを惜しんだ。

 お別れ会はレース終了後に行われ、競馬実況で知られるアナウンサー杉本清さん、オグリキャップの初代馬主の小栗孝一さん、笠松時代の調教師鷲見昌勇さん、デビュー戦に騎乗した青木達彦さんらが、それぞれの思い出を語った。
  
 小栗さんは「笠松での目の覚めるような快進撃、中央での名勝負。これほど多くの人に愛された馬はいない。素晴らしい思い出をありがとう」と涙ながらにメッセージを読み上げ、温かな拍手が送られた。
  
 特設画面に、引退レースとなった有馬記念(90年)の映像が流れると、スタンドから、オグリコールが湧き起こり、ファンらは一時代を築いたアイドルホースの思い出にいつまでも浸っていた。

お別れ会で名馬の活躍をしのんだファンたち

 ■実況の杉本清さん「わずかに内かー」を回顧

 名物アナの杉本清さんは、1989年のマイルCSで「わずかに内かー、オグリキャップか」「負けられない南井克巳、譲れない武豊」と伝えたレース実況を回顧。最後の直線ではバンブーメモリーが抜け出し「もう駄目だ」と思われたが、勝負根性を発揮したオグリキャップ。その鼻先が前に出ていたと感じたそうだが、長い写真判定の結果「1着1番」が点灯し、やはりオグリがハナ差で勝っていた。バブルの時代で単勝1.3倍の馬券を10万円買っていたが、確定するまで長く感じられ、ハラハラドキドキ。何度も着順掲示板を見ながら祈りが通じて「さすがオグリだ」と感激したものだ。
 
 笠松時代のレースでは、引退後に誘導馬として活躍したハクリュウボーイとも一緒に走った師走特別の映像が流れ、ファンから歓声が上がった。安藤勝己騎手と武豊騎手からも別れを惜しむメッセージが届いた。

北海道でも開かれたオグリキャップお別れ会を伝える記事(2010年7月29日付・岐阜新聞)

 ■中央馬とも戦える強い馬づくりを

 地方・中央の壁を超越して、ダートでも芝でも力強く駆け抜けたオグリキャップ。その日本競馬界のヒーローを育てた笠松競馬場。地をはうような走りで、中央のファンも魅了。ゴール板に向かってひたむきに走る雄姿と抜群の勝負根性は笠松仕込みで、その精神は脈々と受け継がれてきた。

 オグリキャップ像に見守られて、経営難や不祥事による逆風にも耐えてきた笠松のホースマンたち。オグリ引退後も中央馬に負けない競走馬を育てて、ライデンリーダー、ミツアキタービン、ラブミーチャンは笠松在籍馬としてJRA重賞や交流重賞を制覇した。

 「ありがとう、オグリキャップ」。木曽川畔は恵まれた自然環境で、豊かな水と土壌は名馬を育ててきた。オグリキャップがデビューした聖地としての誇りを失わず、これからも中央馬とも戦える強い馬づくりに励んでいけば、きっとまたすごい馬に巡り会える。スターホース「復活の日」を待ち望んで、全国のファンが笠松競馬を応援してくれている。


 ※「オグリの里 聖地編」好評発売中、ふるさと納税・返礼品に

 「オグリの里 笠松競馬場から愛を込めて 1 聖地編」が好評発売中。ウマ娘シンデレラグレイ賞でのファンの熱狂ぶりやオグリキャップ、ラブミーチャンが生まれた牧場も登場。笠松競馬の光と影にスポットを当て、オグリキャップがデビューした聖地の歴史と魅了が詰まった1冊。林秀行著、A5判カラー、200ページ、1300円。岐阜新聞社発行。岐阜新聞情報センター出版室をはじめ岐阜市などの書店、笠松競馬場内・丸金食堂、名鉄笠松駅構内・ふらっと笠松、ホース・ファクトリーやアマゾンなどネットショップで発売。岐阜県笠松町のふるさと納税・返礼品にも加わった。