敗れた大友皇子の首が葬られ、そのしるしに三本杉が植えられたと伝わる「自害峯の三本杉」。弘文天皇御陵の候補地になっている=不破郡関ケ原町
玉地区南部の山地を源流とする黒血川。名前のおどろおどろしさとは裏腹に、穏やかなせせらぎが響く=不破郡関ケ原町
桃配山から望む風景。眼下では国道21号とJR東海道線が併走している=不破郡関ケ原町
壬申の乱にまつわる展示物が並ぶ不破関資料館=不破郡関ケ原町

 日本の東西の“境界”に位置する岐阜県不破郡関ケ原町は「天下分け目の地」。1600年の関ケ原の戦いが広く知られているが、古代にも日本を二分する内乱の舞台になった。672年、天智天皇の後継を巡って弟の大海人(おおあまの)皇子(おうじ)と息子の大友皇子が争った「壬申(じんしん)の乱」だ。

 国道21号沿いの不破関資料館。建物の西側は急勾配の崖で、下には藤古川が流れる。約1350年前、大海人皇子は、この“天然の壁”を使って、東西をつなぐ不破道を封鎖。美濃以東を掌握した。

 

 天智天皇の死後、先に実権を握ったのは大友皇子だった。身の危険を感じた大海人皇子は、隠遁(いんとん)する吉野(奈良県)から美濃へと逃れて挙兵。野上(現在の関ケ原町野上付近)に行宮(あんぐう)を置き、西から進軍してくる大友皇子の軍勢を迎え撃った。

 近くの「玉倉部邑(たまくらべむら)」で、激しい戦闘があったと伝わる。具体的な場所は断定されていないが、同町玉周辺と推定されている。玉地区南部を源流とする黒血川は、壬申の乱による兵士の血で黒く染まったことが名前の由来とされ、壮絶な戦いだったことを想像させる。

 戦いはその後も近江や大和などで1カ月ほど続いた。大海人皇子の陣営では、村国男依(むらくにのおより)や身毛君広(むげつきみひろ)ら美濃の豪族たちが活躍したという。近江・瀬田橋の戦いで、大海人方が勝利し最終決着。大友皇子は自害した。

 黒血川沿いの丘の中腹に「自害峯(みね)の三本杉」と名付けられた巨木が立つ。野上行宮へと運ばれた大友皇子の首が葬られたとされる場所だ。力強く空へ伸びる三本の幹は、生命力を宿すような荘厳な空気を醸し出している。

 一方、同町東部の「桃配(ももくばり)山」は、大海人皇子が陣を敷いた場所。陣では、村人から献上された山桃が配られ、兵士の鋭気を養ったという。その928年後、関ケ原の戦いで徳川家康も最初に本陣を置いた。壬申の乱の勝ち戦にあやかってこの地を選んだとも伝わる。

 展望スペースに立つと、山腹に東海道新幹線、眼下には国道21号とJR東海道線が併走。近くを通る名神高速道路の交通情報板も目に入る。今も東西地域をつなぐ要衝として機能する関ケ原の姿を体感できた。

【勝負の分岐点】「関ヶ原」地名の由来に

 皇族から地方豪族まで古代の日本を二分して争った“元祖”天下分け目の決戦。なぜ関ケ原が舞台の一つとなったのか。不破関資料館の飯沼暢康館長に聞いた。

 大海人皇子は、現在の安八郡周辺に私領があった。味方を集めやすく、領地近くの金生山(大垣市)では当時は赤鉄鉱が産出していて武器材料も調達できた。美濃は逃行の最適地だっただろう。

 関ケ原は、古代から現代に至るまで東西地域の境界。大海人皇子は、この東国と西国の“出入り口”をいち早くふさいで、東国の豪族の動きを封じた。

 もし不破道を封鎖することが一日でも遅れていたら、都から大友皇子軍が先にここにたどり着いていた可能性もある。街道を使って東国の豪族たちが大友皇子方に加わることができ、形勢は逆転していたかもしれない。玉倉部での攻防が、壬申の乱全体の勝敗を左右したとも言える。

 大海人皇子は天武天皇として即位後、この地に関所である「不破関」を設置した。東西の往来口を押さえることがいかに重要か、身をもって体験していたからだろう。そうして「関ケ原」という地名が生まれた。