「あー煙草(たばこ)吸いたい! でも私、弘法大師さまにだけには嫌われたくないなあ!」。高野山、奥之院。彩加さんは小声で言った。和歌山県・高野山の奥之院は弘法大師が瞑想(めいそう)を続けている場所とされ、その邪魔をしてはいけないと、携帯電話使用禁止、飲食禁止、もちろん喫煙などもってのほか。上本彩加。この短歌と煙草と酒と御朱印帳をこよなく愛する信心深い煩悩系女子と、10月10日、名古屋・今池のライブハウス、トクゾーで、「短歌一武道会」を開催することになった。それまでも彩加さんとは定期的に煙草とお酒にまみれながら、ここには書けないような赤裸々な女子トークを繰り広げていて、いわば短歌的悪友だ。
弘法大師だけには嫌われたくないという言葉はもう煩悩に溢(あふ)れていて、ツッコミを入れたくなるけれど、ここは神聖な場所。慎もう。奥之院は長く、高野山といえども7月の暑さで喉はからからだ。ようやく、入り口に戻り、お邪魔しましたと橋にお辞儀をしたとき、彩加さんは叫んだ。「灰皿がある! あれは仏だ!」
柄の悪そうな顔で煙草を咥(くわ)え、片眉を下げながら「あや子さん、宗教って今から作れるんすかねえ」と彩加さんは言った。私は隣で買いたてのアクエリアスを一気飲み。スマホで検索しているのだろう、しばらく沈黙して「あや子さん、宗教、ワンチャン作れるかもしれないっす」と彩加さんは叫ぶ。そんな中、坊主頭の幾人かが、その背後を通り過ぎていく。彼らに聞かれたらなんて思われるだろう。明らかに聞こえたはずなのに聞こえないような涼しい顔で通り過ぎるお坊さんたちに、しばし頭を垂れる。
宿坊に案内され、部屋に入ると灰皿がある。「彩加さん、灰皿あるよ」「いや、でもここでまで戒を破ったら自分を許せない」「彩加さん、あとこんなこと言うのどうかと思うんだけど」「ん?」「お坊さんって、なんかそそるね」
そんなわけで煩悩まみれで精進料理を食べ、お坊さんを愛(め)でながら夜は写経体験。ああ、お坊さんに、無理やりでもいいから煩悩を相談してみたい! という秘めた思いを隠し、写経を終わる。そうしているうちに夜も更けて明日は勤行だ。わーい、お坊さん見放題! 信心深い煩悩系女子の旅は、まだまだ終わらなさそうだ。(岐阜市出身)
岐阜市出身の歌人野口あや子さんによる、エッセー「身にあまるものたちへ」の連載。短歌の領域にとどまらず、音楽と融合した朗読ライブ、身体表現を試みた写真歌集の出版など多角的な活動に取り組む野口さんが、独自の感性で身辺をとらえて言葉を紡ぐ。写真家三品鐘さんの写真で、その作品世界を広げる。
のぐち・あやこ 1987年、岐阜市生まれ。「幻桃」「未来」短歌会会員。2006年、「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞。08年、岐阜市芸術文化奨励賞。10年、第1歌集「くびすじの欠片」で第54回現代歌人協会賞。作歌のほか、音楽などの他ジャンルと朗読活動もする。名古屋市在住。