岐阜県揖斐郡揖斐川町の古刹(こさつ)・両界山「横蔵寺」、境内の一角に高さ1・6メートルほどの「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」が立っている。平安末期の源平合戦で源氏方として活躍した熊谷直実(くまがいなおざね)の墓と伝わる。かつては山上部の旧横蔵寺跡にあったが、昭和後期ごろに現在の場所に移設された。
熊谷直実は、平家物語や能「敦盛」にも登場する坂東武者。源平合戦の「一ノ谷の戦い」で、平家の若き貴公子・平敦盛を討ち取り、源頼朝から「日本一の剛の者」と絶賛された。それでも、自分の息子と同年代の敦盛の命を奪ってしまったという後悔にさいなまれる。
平家物語にはその様子が描かれている。浜で敵を取り押さえた直実。首を取ろうとかぶとを剝がすと、まだ幼さが残る少年だった。息子の姿と重なり、あまりにかわいそうで刀をどこに刺していいか分からなくなった。名前を尋ねると、少年は「自分の首は手柄になる」と答える。直実は泣く泣く首を取る。
武士としての生き方に疑念を感じた直実は、鎌倉期に入ると出家。蓮生と名乗り、複数の寺院を開基するなどして、1207年ごろに亡くなったとされる。廟(びょう)所とされる場所は京都市や埼玉県などにある。
「蓮生(直実)は1204年に阿弥陀三尊持仏を持って、この横蔵寺を訪れた。持仏は五間四面(ごけんしめん)のお堂に安置された」。坂本廣博(こうばく)住職(80)が横蔵寺に残る伝承を教えてくれた。江戸期にまとめられた寺の資料には、鎌倉初期の51代住職・円道の時代に直実が来寺し、阿弥陀仏を彫ったこと、承元2(1208)年に寺で没したことなども書かれているという。
実際、寺の仁王像(国重要文化財)の胎内銘には、当時の境内に阿弥陀三尊持仏のための「五間四面のお堂があった」ことが記されている。仁王像は1256年の制作であることから、坂本住職は「直実が寺に来たことは信ぴょう性はあるのでは」と語る。
その三尊持仏は横蔵寺に現存していないが、墓と伝わる宝篋印塔のほか、直実のものとされる笈(おい)(仏具や仏像を入れて修行者が背負う箱)が残る。さらに、本堂には直実が彫ったとされる阿弥陀仏が安置されている。30センチほどの小さな仏像は、どこか憂いをたたえているようにも見える。直実が感じた武士の世の“諸行無常”を映し出しているのだろうか。
アクセス:揖斐川町役場から車で20分ほど境内の客殿前にある
概要:石塔、高さ約1.6メートル
※名前、年代、場所などは諸説あります。