その日、私はいつもの名古屋・栄の噴水前に、ワンピースに重ねた着物と兵児(へこ)帯、スニーカー姿でイツメンに駆け寄った。

 この3月末くらいからだろうか、ラップのストリートパフォーマンスである「サイファー」を開催する「伏見サイファー」に参加している。主なメンバーは中学生、高校生も加えた10代から20代の男の子たち。ふとインターネットで検索し、見学したいです、と顔を出したけれど、気がついたら参加していて韻も踏めないなりにサイファーのイツメン(いつものメンツ)になりつつある。とはいっても着物を着て行くのは今日が初めて。

 「え! あや子さん、どうしたんですか?」

 「あ、これ普段着なんすよ」

 「あ、普段着。ふう……ん、ん」

 伏見サイファーでは今のところ女性は私一人。しかも、はきはきと年齢が答えられる年代と違って妙齢の歌人という、ちょっと毛色の変わったメンバーだけあって、大抵のことはラップでリアルなことを言っていれば、ほぼほぼ受け入れてもらえるようになってきた。着物も歌人の普段着といえば普段着。特別な服といえば特別な服。年齢を聞かれると微妙な空気になるので、65歳と言ったら着物というバグった格好も含めて信じられそうで焦った。でもせっかく歌人でラップをやるなら、日本の伝統文化も取り入れてみたかったのだ。

撮影・三品鐘

 そんなことをやっているうちに、高校生の女の子の参加者も加わり、和気藹々(わきあいあい)としながらも、ときにピリッとしたムードでサイファーは進む。誰が一番クールかを競うラップで「私なんて……」と思うのは禁止だ。韻が踏めなくてもフロウ(流れ)が掴(つか)めなくても、黙ったら終わり。自分がカッコ悪いと思ったら終わり。そんな中で短歌もリリックと捉えた時、私の中で一番クールだと思ったリリック、藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」をさりげなく組み込んでバースを蹴ってみる。「見渡せば、花も紅葉もない? ないことをあるって言える あるのにないって why? これがlanguageの不可思議」たどたどしく舌が回らないなりにラップする。

 そんなうちに2、3時間はゆうに経(た)ち、栄の広場も陽(ひ)が傾き始め、門限のある高校生から先に帰っていく。私も帰宅の時間だ。「じゃあまた! ありがとうございました!」「ウィース! またですー!」。そう言って汗だらけの着物の裾をパタパタさせながら栄をあとにする。

 さあ今日もバースを蹴ってみよう。履物はナイキ、着物は総絞り、地下鉄を駆け上がり!


 岐阜市出身の歌人野口あや子さんによる、エッセー「身にあまるものたちへ」の連載。短歌の領域にとどまらず、音楽と融合した朗読ライブ、身体表現を試みた写真歌集の出版など多角的な活動に取り組む野口さんが、独自の感性で身辺をとらえて言葉を紡ぐ。写真家三品鐘さんの写真で、その作品世界を広げる。

 のぐち・あやこ 1987年、岐阜市生まれ。「幻桃」「未来」短歌会会員。2006年、「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞。08年、岐阜市芸術文化奨励賞。10年、第1歌集「くびすじの欠片」で第54回現代歌人協会賞。作歌のほか、音楽などの他ジャンルと朗読活動もする。名古屋市在住。

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