総合物流企業エスラインの中核事業会社エスラインギフの前身・岐阜合同産業が、岐阜の地に轍(わだち)を残したのは、戦後間もない1947年3月だった。国の第2次陸運統制令で岐阜市の六つの運送店が一緒になって設立され、創業者の一人で社長の初代山口軍治は、先見の明で運送店の頃から導入していたトラックを主体とした小口輸送を展開した。国鉄(現JR)岐阜駅前の繊維問屋街で、繊維製品を中心とした運送を発展させ、定評のあったきめの細かい仕事ぶりで「集配のチャンピオン」ともいわれた。

 荷車・馬車や長良川の水運などを利用して物資を運んでいた個人商店の運送店の寄り合い所帯が法人化。車両を一番多く持ち、規模が大きかったという山口運送店の初代山口軍治が社長に就任した。

 初代社長の初代山口軍治

 会社設立時、資本金18万円、社員67人、車両30台で岐阜市鶴田町で産声を上げた。戦後の混乱期。45年7月の米軍による岐阜空襲で市街地の約8割が焼失し、まだ復興のさなかだった。燃料のガソリンが不足し、まきをたいてガスを発生させる装置を搭載した代燃車両がほとんどだった。道路も未舗装で、トラックのスプリングが折れる故障もたびたびあったが、県土復興に関わる物資の輸送で復興に尽力した。

 48年に岐阜トラック、49年に岐阜トラック運輸に商号を変更。49年12月には一般路線貨物自動車運送事業を開始し、国から岐阜-名古屋、岐阜-大阪路線の免許を取得して待望の県外へと輸送距離を延ばした。初代軍治の没後、その功績を顕彰するため作られた胸像には「私ごとを顧みず、社運の興隆に全力を傾注し盤石の社礎を築いた」と碑文が刻まれた。

 エスライン本社に置かれた初代山口軍治の胸像、二代目山口軍治の自画像の脇に立つ第5代社長山口嘉彦=2021年12月22日、羽島郡岐南町平成

 会社の母体となる山口運送店は28年、山口友吉が開店した。大正から昭和の初めにかけては、物を運ぶ輸送手段は馬車が中心だった。馬車休憩所兼宿は、郡上・白鳥や関、美濃など当時の郡部からの荷物を馬車や荷車で岐阜市へ運んで来た人たちが、立ち寄って馬を休めたり、休憩、宿泊をしたりしていた。宿が往来者でにぎわい、物資の受け渡しが頻繁に行われるのを見た友吉は、宿で生活物資の運送取り扱いを始め、順次拡大していった。

 店を始めた昭和初期に、馬車に代わる輸送手段として登場したのがトラックだった。日本へも輸入されるようになった。当時の車両台帳に残る名は、米国製の「フォード」「ダッチ」。馬車はトラックに比べ輸送に時間がかかり、運べる量も少なかった。友吉は同業の中でも導入は早く、先見の明があった。

 会社設立後のトラックと従業員=岐阜市内

 父友吉の家業の運送業を手伝って育った初代山口軍治。店は第2代社長の二代目山口軍治(幼名久男)が養子となり、幼少期から過ごした家でもあった。

 二代目軍治の長男で現在の第5代社長山口嘉彦は、「当時のトラックは、今でいうならジェット機ほどの速さの価値があったと推測される」とし、物流手段が馬車からトラックへ移行することで、運送の価値観が大きく変わったと指摘する。

 中核事業会社エスラインギフの設立70年を経て、純粋持ち株会社へ移行し、グループ経営を進めるエスライン。轍を次代へつないで発展の道を描く。(敬称略)