川本勇さんインタビュー5回目は前回に引き続き、岐阜総合高校編・下。独自の育成法で強豪に育て上げ、2003年、04年の2年連続で岐阜大会準優勝に導いた秘けつを、エピソードを交えて聞いた。(岐阜新聞デジタル独自記事です)

2004年、岐阜総合監督として2年連続で岐阜大会準優勝に導いた川本勇さん=長良川球場

 ―大野奨太さん(元日本ハム、中日)が、先生の慧眼(けいがん)で未経験のキャッチャーに挑戦し、プロへの道が開けたように、選手のあらゆる可能性を試し、引き出して育て上げる指導法は川本野球の根幹ですね。

 川本 私は基本的に野球選手はどこのポジションもできなければいけないと思っている。ピッチャーやったことがないから、けん制の仕方がわかりませんというのは野球をやったことがないのと同じだぞ―と常々言ってきた。

 内野なら外野もというように二つのポジションができれば、出場する機会が増えるし、本人にとって新たな発見もあるので一貫してきた。

 大垣西で秋ベスト4になった時も3年生10人のうち8人にピッチャーをやらせていた。ピッチャーやったことがないという選手が結構、喜んでやったりする。球の回転がよかったから、やらせてみて、ピッチャーで成功したこともある。

 さらに言えば、ほとんどの子に一回、左で振らせてみる。それで左打ちになった選手も多くいる。大野と同級生で指導者になって大垣工で監督していて、今春、岐阜総合に転任した松田潤樹は、左右どちらでもノックしていた。総合はスイッチヒッターが結構いたし、左になって4番を打つようになった選手もいる。

 足の速い子は、必ず左に挑戦させてみる。大垣南の今年の選手も左にしたら面白いと思う選手がいて、挑戦させている。意外とやってみたらできるし、可能性のあることは、どんどんやらせてみることは指導者人生の中で、ずっとやってきた。

 川本勇(かわもと・いさむ) 1962年、金沢市生まれ。父親の転勤で住んでいた静岡市の小学生時代にソフトボール、少年野球に励む。中学2年で父親の実家のある大垣市に引っ越し、大垣南高では入学直後から二塁手でレギュラー、3年時に主将を務める。金沢大教育学部に進み、2年時から二塁手として北陸大学リーグに出場。岐阜県で教員になり、多治見、大垣西で監督を務め、1996年、合併で岐阜総合になる前年の岐阜西工に転任。99年春、初めて県大会で準優勝し、春県は5度準優勝。夏の岐阜大会は大野奨太(元日本ハム、中日)がいた2003、04年に2年連続で準優勝。部長だった07年にも準優勝。翌08年に転任した母校大垣南でも監督として準優勝し、2校にまたぐ2度目の2年連続、計4度目の準優勝を果たす。23年に退職後も、再任用として引き続き大垣南に勤務し、現在も副部長として指導に励む。

 ―そのころになると、毎年、優勝を争えるチームになっていた?

 川本 そのころは1学年30人くらいで、全部で90人いたが、全員にバッティング練習させた。打つ本数は少なくなるので、この子だけは多く打てということはあったが、君は何もしなくていいということは絶対にしてなかった。同じ部員だし、競争させることも大事だと思うし、一生懸命頑張っている選手に機会を与えてきた。

 すごいなあと思うのは5月くらいになると3年生が「先生、僕たちはいいので、...