藤原秀衡が寄進したと伝わる銅造虚空蔵菩薩坐像について解説する上村修一さん。明治以前は白山中居神社に安置されていたが、神仏分離により現在は「大師講」が管理する収蔵庫で保管されている=郡上市白鳥町石徹白

 源義経は美濃を通り、郡上で手助けを受けて奥州へ逃れた―。1185年の壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした義経は、やがて兄頼朝と対立。京都を追われて“育ての親”である奥州平泉(岩手県)の藤原秀衡の元へ身を寄せた。岐阜県郡上市白鳥町の石徹白地区には、義経一行がその逃避行のさなかに同集落を通過し、集落にいた秀衡ゆかりの者たちが助けたという伝承が残されている。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で兄弟確執へと物語が進む中、岐阜県内の義経伝説を追った。

 石徹白は、白山登拝のための美濃禅定道沿いにある山深い集落。かつて白山信仰の拠点としてにぎわい、平安末期には奥州藤原氏とも関わりがあった。集落には、白山信仰に厚かった秀衡が寄進した銅造虚空蔵菩薩坐像(こくぞうぼさつざぞう)(国重要文化財)が今も残されている。秀衡は仏像を守るための家臣団も石徹白へ遣わしたという。寄進は1185年ごろとされ、義経が頼朝と対立を深めていく時期と重なる。

 「奥州を目指した義経は、石徹白に来てこの仏様を拝み、秀衡家臣団の手助けを受けた。信ぴょう性は分からないが地元ではそんな話が伝わっている」。坐像を所蔵する住民団体「大師講」の代表上村修一さん(86)が教えてくれた。上村家はそのまま住み着いた家臣団の末裔(まつえい)だといい「先祖たちが義経を救ったかもしれないと考えると感慨深い」と思いをはせる。

 義経の奥州までの具体的な逃避行ルートは確定していない。「安宅の関」を越えた北陸通過説が広く知られ、室町期に書かれた軍記物語「義経記」では琵琶湖畔を北上したとされる。一方、鎌倉幕府による記録「吾妻鏡」には「伊勢・美濃等の国を経て奥州に赴く」と記されている。

 県内の源平ゆかりの地を研究する中部学院大講師の三木秀生さん(78)は、美濃経由で奥州へ向かったとすれば「監視が強い東山道や東海道より、やはり日本海側へ抜けたと考えるのが自然」とし、長良川に沿って北上し、郡上から白山麓を北陸側へ越えたと推察。加えて「石徹白にいた家臣団の一部がそのまま奥州まで護衛したという伝承もある」と紹介する。

 白山文化博物館(郡上市白鳥町長滝)の担当職員鈴木雅士さん(52)は、禅定道の起点・長瀧寺(同)にもかつて奥州藤原氏から寄進された梵鐘(ぼんしょう)があったことを紹介し「北上してきた一行は、長滝から禅定道に沿って石徹白へ向かったのでは」と語る。さらに、逃行劇が冬であることから「雪深い石徹白は、人の目を逃れるのにちょうどいい。(白山信仰の)越前側の拠点平泉寺(へいせんじ)を通って安宅の関方面へ向かったというルートが、一つの可能性として挙げられる」と想像を巡らす。

 博物館では、大河ドラマに合わせ特設コーナーを設置。義経の石徹白通過の伝承にまつわる解説パネルや、坐像が秀衡の寄進であることの根拠となる「上杉系図」などの資料が展示されている。

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 【源義経と奥州】 幼少期に、平清盛との戦いで父源義朝が敗死。京都の鞍馬寺に預けられたが出奔し、奥州平泉へ逃れて藤原秀衡のひ護を受けた。兄頼朝が平家打倒の兵を挙げると奥州から駆け付け、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした。その後、頼朝と対立し、鎌倉方から追われると、吉野(奈良県)や比叡山(京都府・滋賀県)などに潜伏。1186年末ごろに消息が途絶え、87年春には奥州にいることが明らかになる。その具体的な逃避行ルートは確定しておらず、諸説ある。