ここしばらく、ある歌人論の執筆に挑戦している。久しぶりに論に挑戦して思うのは、論じるとはなんて残酷な作業かということだ。歌人の歌集をめくり、経歴をリストアップし、近しかった人への取材を行う。その人の作品における「かなしみ」の量と「憎しみ」の量を金の天秤(てんびん)にのせるようにはかり、もう亡きその人の血縁や経歴を、内臓を抉(えぐ)って引き出すように調べあげる。論じる、なんていうとなんて知的な作業かと思っていたが、始めてみると手の上は血だらけ、まるで対象の人生を生のまま食べてしまったような恐ろしさを感じる。歌人論とはもしかしてテキストを通したカニバリズムなのかもしれない。

 なぜ最初にその歌を歌いましたか? なぜその学校に入学しましたか? なぜそのテーマを歌おうと思ったのですか? 歌集一つ一つに満足していますか? 一番の恋人は誰でしたか? 一番信頼できる友人は誰ですか? 今思うと、あなたはあなたの歌をどう思いますか? そしてもし、もう一度生まれ変わるなら、あなたはまた歌人になりたいと思いますか?

(撮影・三品鐘)

 たくさんのクエスチョンを脳に浸し、文献をめくり、歌に香る思念に歯を当て、食らいつく。この歌はその人の指だ。この歌はその人の胸だ。この歌はその人の心臓。二の腕。脇。ふくらはぎ。ひじ。腰。爪。かかとに脇腹。あしのうら。そしてここは、絶対に見られたくなかったところ。

 そう思うと、言葉に残すとはきっととても恥ずかしい。消そうと思っても消せない言葉の生な肉体だ。特に作家にとって、自分の深部を晒(さら)すなんてことは、自分で自分のデジタルタトゥーを残し続けているようなものだろう。

 それでも言葉はとても美味(おい)しい。輝かしい一首は噛んでも噛んでも豊穣な香りと甘さをずっと残し続けてくれる。それすらもちろん、作者の豊かな血と肉を通して生まれたからだ。

 言葉は残酷だ。言葉はとても恥ずかしい。言葉はとても美味しい。ある歌人の言葉の肉体に食らいつき咀嚼(そしゃく)しながら、そう何度も唱える。満月の夜である。


 岐阜市出身の歌人野口あや子さんによる、エッセー「身にあまるものたちへ」の連載。短歌の領域にとどまらず、音楽と融合した朗読ライブ、身体表現を試みた写真歌集の出版など多角的な活動に取り組む野口さんが、独自の感性で身辺をとらえて言葉を紡ぐ。写真家三品鐘さんの写真で、その作品世界を広げる。

 のぐち・あやこ 1987年、岐阜市生まれ。「幻桃」「未来」短歌会会員。2006年、「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞。08年、岐阜市芸術文化奨励賞。10年、第1歌集「くびすじの欠片」で第54回現代歌人協会賞。作歌のほか、音楽などの他ジャンルと朗読活動もする。名古屋市在住。