岐阜県が生んだ至高の漫画家、山田ゴロ先生の半生をたどる本連載。2回目を迎える今回は、幼少~少年期を中心にご紹介しよう。

 ゴロ先生の漫画家魂を育てたのは、近所の理髪店だった。待合スペースに置かれた漫画誌をゴロ少年はむさぼるように読み漁(あさ)った。中学に上がるとその夢は熱を増し、中学3年生の春休み、ついに行動に出る。

“マンガ大好き山田君”が紹介された1968年4月20日付の岐阜日日新聞紙面

 「岐阜日日新聞(現岐阜新聞)に直接乗り込みました。書きためた漫画原稿を風呂敷に入れて。それを受付で差し出して、“漫画を見てもらえませんか?”とお願いしたんです」

 応接室に通されたゴロ少年を編集部の男性が優しく出迎えた。4月から高校に進級と聞いたその編集部員は“高校生を紹介するコーナーがあるから取材させてほしい”と。1週間後、取材はゴロ少年の自宅で行われ、進学してほどない4月20日、記事の載った新聞が刊行。ゴロ少年は朝礼で校長先生に呼ばれ、激励されたという。まもなく学研の「高1コース」から取材が入り、ゴロ少年は一躍全国区に。その年の夏休み、運命の転機が訪れる。

ゴロ先生が中学校時代に描いた漫画「脱走兵」(未完)画稿

 父親の通う女性歯科医が小学館で漫画編集者をしている実弟を紹介してくれるという。その編集者こそ誰あろう、当時「少女コミック」の副編集長で、『ポーの一族』(1972年)や『11人いる!』(76年)の萩尾望都先生を見いだした名編集マンの山本順也氏だった。

 父親とともに上京、山本氏に会ったゴロ少年は、氏のアドバイスに従い、夏休みになると藤子不二雄(F・A)先生や、つのだじろう先生ら一流の漫画家を訪ねた。つのだ先生には臨時のアシスタントも任され、それがゴロ少年の人生初漫画仕事となった。“漫画家・山田ゴロ”の生みの親はまさに山本氏だろう。その山本氏がゴロ少年を、今度は中城けんたろう先生の下へ送り込んだ。中城先生も手塚治虫先生タッチから劇画に移行しつつある過渡期で、その指導は厳しかった。約1年後、中城先生の下を卒業し、石森プロの面接を受けた。

「小夜の縫う浴衣」扉の画稿(©1971 萩尾望都)。ゴロ少年が上京後、山本順也氏から「プロになるのなら、これくらい描けなくちゃダメだよ」と見せられた、デビュー2年目の萩尾先生の画稿

 「昼も夜もなく、外出もせず、中城先生の仕事場で原稿ばかり描いていたので、テレビも見ず『仮面ライダー』すら知りませんでした。石森プロの面接で何を描いていたか聞かれて“ウルトラマン”と答えると、“敵じゃないか?”と言われました(笑)」

 もちろん面接ご担当の冗談で、即石森プロ入りが決まり、念願のプロデビューも果たした。それから半世紀、漫画はどう変わったのだろう?

中城けんたろう先生の「キックの鬼」。単行本化の際、ゴロ先生がアシスタントとして参加した

 「何よりも、もうペンとインクで描いていない。デジタルで描けてしまう。その分、人間らしさや作家の“個性”が失われている気がします。『ONE PIECE(ワンピース)』など今でも大ヒットしている漫画にはそれがある。たとえデジタルになっても“人間を描く”ということを忘れないでほしいですね」と分析しつつ、後輩たちにエールを送った。

(特撮・アニメ研究家 岩佐陽一)

◆やつるぎ村番外「雪の東京」が読めます

 

 ゴロ先生が漫画界に飛び込むきっかけとなった漫画編集者との出会いを短編小説化。山田ゴロ15歳の写真も収録。(閲覧無料ですが、通信料がかかることもあります)

◆お便り募集!

 山田ゴロ先生は、石ノ森章太郎原作の仮面ライダーシリーズ、人造人間キカイダーなど、多くの作品に携わりました。読者の皆さんから作品の思い出、先生へのメッセージ、イラストを募ります。はがきに住所、名前(ペンネーム可)、年齢、電話番号を明記し、〒500-8577、岐阜市今小町10、岐阜新聞社「山田ゴロ」係まで送ってください。