ゴロ先生は特に石ノ森先生のギャグ漫画が大好きだった。高校時代の夏休み、ゴロ先生は藤子不二雄(F・A)先生やつのだじろう先生、そして大好きな石ノ森先生邸を訪ねた。当時の家政婦さんに応接室に通されたゴロ先生は、徹夜明けの先生が起きるまで待ち続けた。そこで寝ぼけ眼の石ノ森先生と初対面。緊張かつ夢心地で、先生の感想やアドバイスは全然覚えていないという。数年後、ゴロ先生は石ノ森先生と再会。石森プロに参加することになる。それに当たっては、梶原一騎原作の『カラテ地獄変』(1974~83年)シリーズなどで知られる中城健(当時はけんたろう)先生の下での修業が大いに役立ったという。ここにゴロ先生が中城先生門下時代に描いた習作の1枚がある。蒸気機関車(デゴイチ)の線画だが、その緻密さとデッサンの正確さは目を疑うばかり。

中城けんたろう先生のアシスタント時代、ゴロ先生が丸1日かけて描いた機関車の習作。影は全てペンによるカケアミで表現した

 「機関車の漫画を描くことになり、機関車を描く練習をした1枚です。中城先生から“すべての物体は三角形や長方形、円などの組み合わせで成り立っている”という理論を教わりましたが、これは今に至るまで役に立っています」

 アシスタント入りしてほどなく、中城先生の厳しいシゴキに耐えかねたゴロ先生はそこを飛び出し、実家に帰った。だが、父親に「ここにはお前の居場所はもうない」と言われた先生は、つのだ先生にアシスタント入りを相談するが、つのだ先生は中城先生との関係にきちんとけじめをつけるよう命じた。そこでゴロ先生が謝罪の手紙を送ると、中城先生から電話がかかり、ひと言「戻って来い」と言われた。

人造人間キカイダー6巻の表紙

 「正直、行く所がなかったのでそう言われたときはうれしかったですね。戻ってからは、もう何を言われてもつらくなくなりました。アシスタント経験はこの1年だけですが、この1年がなかったら今の僕はなかったでしょうし、この1年は5~10年の密度に感じました」

 1年後、石森プロに入ったゴロ先生は石ノ森先生原作の『人造人間キカイダー』(72年)のコミカライズでメジャー・デビューを果たす。実際にはその直前から石ノ森先生自らが描く“原作”『キカイダー』の作画チームに加えられた。他メンバーはひおあきら先生、細井雄二先生、土山芳樹(よしき)先生、そして後にゴロ先生の生涯の伴侶となるココア先生もいた。この『キカイダー』は石ノ森先生が“現代のピノキオ・ストーリー”として描いたもので、物語の冒頭にはピノキオも登場する。最終回、キカイダーは良心をつかさどる回路、通称「ジェミニィ」の他に新たに悪への服従回路「イエッサー」を埋め込まれて善悪両方の心を持つ、事実上の“人間”となった。その人間の“強靭(きょうじん)な意志の力”で一度も使えなかった破壊光線を使い、悪の虜(とりこ)となった兄・ゼロワン、弟・ダブルオー、恋人ロボのビジンダーを瞬殺(破壊)。ラスボスのハカイダーを倒して幕を閉じる。“人間になって幸せになれたのだろうか?”という問いかけを残して。当時このシーンに衝撃を受け、トラウマとなった少年少女読者は少なくない。

人造人間キカイダー6巻(©石森プロ)より、ゴロ先生の担当ページ。石ノ森先生の下書きに飲み物をこぼしてしまったが、無理やり乾かして仕上げた。石ノ森先生からは「いいんじゃない」とOKをもらったが、よく見ると「ビューン」という描き文字の中に効果線が残ったままになっている

 「この展開は僕ら作画チームにはいっさい知らされていませんでした。毎回のストーリーも、先生が鉛筆で描いたコンテ画を渡されて初めて知りました。兄弟たちを一瞬で殺すシーンにも驚きましたが、一番驚いたのはラストで再びピノキオが登場したことです。“先生は最初からピノキオで物語を終わらせるつもりだったんだ!”と、僕ら一同、思わずうなりました」

 “伝説”に参加し、立ち会い、創造主とともに創り上げた生き証人、ゴロ先生の証言をこうして今、新聞に書いている自分を、50年前の子どもの自分に誇りたい。

(特撮・アニメ研究家 岩佐陽一)

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 山田ゴロ先生は、石ノ森章太郎原作の仮面ライダーシリーズ、人造人間キカイダーなど、多くの作品に携わりました。読者の皆さんから作品の思い出、先生へのメッセージ、イラストを募ります。はがきに住所、名前(ペンネーム可)、年齢、電話番号を明記し、〒500-8577、岐阜市今小町10、岐阜新聞社「山田ゴロ」係まで送ってください。