1991年1月、笠松競馬場で開かれたオグリキャップの引退セレモニーでは安藤勝己騎手が騎乗した(笠松競馬提供)

 オグリキャップのデビュー戦、専門紙の印は▲だった。

 わが家には地方、中央の競馬専門紙が山積みになっているが、「お宝」が眠っていた。笠松競馬ではオグリキャップ記念の開催も近いので、産駒の活躍馬オグリエンゼルについて調べていたら、段ボール箱の底に沈んでいた貴重な歴史的資料を「発掘」できたのだ。オグリキャップの笠松時代の出走表をはじめ、直前情報や成績を掲載した専門紙「競馬エース」だった。

 ■マーチトウショウとオグリキャップの馬名入り

 うれしいことにオグリキャップが笠松で駆け抜けたデビュー戦からの10レース分(名古屋、中京戦除く)がまとめて出てきたのだ。現物は32年前、都内の競馬雑誌社に貸し出したまま行方不明になっていたが、コピーしたものが残っていた。オグリエンゼルの写真入りの専門紙記事を見つけ、「あった」と喜んでいたら、そのすぐ下からマーチトウショウとオグリキャップの馬名が入った超レアな出走表も見つかった。キャップの娘エンゼルが天使となって幸運を引き寄せてくれたようでうれしかった。
 
 人気漫画「ウマ娘シンデレラグレイ」は笠松競馬場を舞台にして始まり、単行本第1巻には、オグリキャップのデビュー戦での惜敗、2戦目圧勝後のウイニングライブなども描かれている。実際のレース映像は6戦目の秋風ジュニアから残っているが、1~5戦目の800メートル戦はない。華やかに語られる中央時代に比べて、笠松時代の活躍ぶりを示す資料は少なく、「オグリの里」としては歯がゆい思いもしてきた。このため、見つかった専門紙の厩舎情報やデータなどを分析。中央移籍前、すさまじい成長力で既に古馬のような風格を漂わせていたオグリキャップの走りの記録を、笠松の常連さんやウマ娘ファンのトレーナーさんにも知ってもらうことにした。

1987年10月、中京盃を制覇したオグリキャップ

 ■笠松で10戦、ファンの間では「無名」に近かった

 オグリキャップは1987年5月に笠松競馬場でデビュー。鷲見昌勇厩舎に所属し、青木達彦騎手、高橋一成騎手に続いて6戦目の秋風ジュニアから安藤勝己騎手が主戦となって手綱を取った。東海公営では88年1月までの8カ月間に笠松で10戦、名古屋と中京で1戦ずつ。重賞5勝を含め計10勝、2着2回と確かに好成績を残したが、まだ3歳(現2歳)だった。当時の笠松にはフェートノーザンやポールドヒューマなど全国区で活躍する強い古馬がいっぱいいた時代。オグリキャップの中央へのトレード話は水面下で進められていたが、ファンの間で騒がれることはなく、3歳の若駒は「無名」に近い存在だった。
  
 出走表や予想記事へのアンダーラインなどを見ると、個人的には当時から穴党だった。専門紙を手にしてもオグリキャップは「◎が6個」並ぶ本命馬の一頭としか見ておらず。馬券的には人気薄の馬に注目していた。「オグリキャップ」の名を明確に意識し、熱く応援し始めたのは中央入り後。関西で重賞を3連勝し、東上してNZT4歳Sを圧勝し「幻のダービー馬」と騒がれだしてからだった。

1991年1月、オグリキャップ引退セレモニーでコースを周回するオグリキャップ(笠松競馬提供)

 ■単複と枠連しかなかった時代

 当時、東海公営の競馬専門紙はエース、東海、競新、中部優駿の4紙があった。「走るドラマ」の笠松競馬と「推理とロマン」の名古屋競馬と呼ばれた昭和の古き良き時代。馬券はまだ単勝、複勝、枠番連勝しかなく、笠松はフルゲート10頭で、枠連は最大30通りしかなかった。

 日本競馬界最大のヒーローとなったオグリキャップが「青春時代」を過ごしたともいえる笠松競馬場での日々。中央での活躍ぶりは映像や活字で多く残されているが、36年も前の笠松時代の出走表や調教タイム、予想記事などは見当たらず。個人的にも「引っ越しの際にコピーも消失し、もう見つからない」と諦めていたが、昨年「ウマ娘シンデレラグレイ賞」で脚光を浴びたこともあって、専門紙の山から掘り起こすことができた。今回、「エースメディア」さんのご協力を得て、オグリキャップのデビュー戦から、その熱くて力強い蹄跡をレースごとに順次振り返っていくことにした。

オグリキャップがデビューした1987年5月19日、笠松競馬1Rの専門紙「競馬エース」の紙面 

 ■オグリキャップの新馬戦(1987年5月19日)

 デビュー戦となった新馬戦は10頭立て800メートル(良馬場)。◎印は芦毛のマーチトウショウ(後藤四季治厩舎)=原隆男騎手=で、能試(能力試験)800メートル戦では51秒1で一番時計。スピード馬が多いプレストウコウ産駒で、血統面からも断トツの1番人気。馬体重は416キロ。「ウマ娘シンデレラグレイ」では「フジマサマーチ」の名で登場している。

 同じく芦毛のオグリキャップには青木達彦騎手が騎乗。能試は51秒8。▲印とやや低い評価で、◎は1個もなし。大きく離されての2番人気だった。馬体重は452キロ。スタートは良くないが、中団から力強く抜け出すタイプで、短評でも「追って味ある」とその末脚はトラックマンも注目していた。能試でのマーチトウショウとの「0.7秒差」は、レース本番で逆転できるのか。

競馬エース「オグリキャップ引退記念号」に掲載されたデビュー戦の写真

 

 ■◎マーチトウショウにクビ差負け

 ○印はフェートジョイ(大倉護厩舎)=坂口重政騎手=で、短い距離での先行力が買われた。アンカツさんは自厩舎の△印・フェートオーカン(吉田秋好厩舎)に騎乗。×印の馬には安藤光彰騎手と川原正一騎手。当時はみんなまだ20代で、豪華な顔ぶれだった。ちなみに岐阜新聞の予想は◎マーチトウショウで「能試余力」と本命視。オグリキャップは○印だった。

 レースはマーチトウショウが予想通り好スタートを決めて突っ走り、50秒0で逃げ切った。オグリキャップは出足の差で5番手からの追走となり、3コーナーでは他馬に大きく外へ振られる不利を受けた。4コーナーでは2番手に上がって追い込んだが、先行してうまくインを突いたマーチトウショウに、クビ差だけ届かず2着に終わった。
  

 ■芦毛対決のライバル物語が幕開け

 新馬戦から芦毛馬2頭によるマッチレースとなり、ライバル物語が幕開けとなった。オグリは負けて強しの内容で、大器の片りんを見せた。◎→▲で決まり、枠連①―⑤の配当は440円だった。

 単複の馬券はあまり売れなかった時代。単勝はマーチトウショウが158票に対して、オグリキャップが34票。出走表には1R「惑星多彩」とあるように、2着以下は混戦とみられていた。ガチガチの本命レースなら枠連200円台前半が多かった当時の笠松だが、1、2番人気で440円なら「いい配当」でもあった。マーチトウショウの単勝は140円で複勝は110円。一方、オグリキャップの複勝は26票しか売れず、210円も付いた。

 3着には無印で7番人気のノースヒーロー(飯干秀人厩舎)=小森勝政騎手=が食い込んだが、2頭からは引き離されて5馬身差。複勝は最低人気だった。○フェートジョイは6着、アンカツさんのフェートオーカンは8着に終わった。

 ■「グーンと沈み込んで、地をはうような走り」

 「笠松では、馬をラチ沿いにピタリと寄せて走らせるのが好きだった」と語っていたのはアンカツさん(昨年、笠松での予想番組)。確かに笠松は小回りでカーブがきつく、大外をブン回すより、経済コースのインをキープしてコーナーを回る方がロスが少ない。コースを熟知したアンカツさんの言葉だけに、今の若手騎手もコース取りや馬群のさばき方など攻略法をマスターし、飛躍につなげていきたい。
  
 800㍍戦のコースレコードには48秒2でサンキョウスーパーの馬名。アンカツさんが「800メートルまでなら、中央の馬にも負けなかったのでは」と振り返っていたほどのスピード馬。18戦12勝でレコードタイムは1980年5月のデビュー戦での記録。

 オグリキャップのデビュー戦に騎乗したのは青木達彦騎手。「グーンと沈み込んで、地をはうような走り」と乗り心地の良さと能力の高さを感じていた。青木騎手はポールドヒューマとのコンビでは87年に中山重賞・サンケイオールカマーにも挑戦(12着)。89年には笠松・全日本サラブレッドカップを制覇した。当時、笠松では一番応援していた馬で印象深い馬名である。

昨年のオグリキャップ記念シリーズで設置されたウマ娘パネルとオグリ像

 ■6日間開催、デビュー戦の入場者数は3935人

 この頃の笠松は、日曜から金曜までの6日間開催。オグリキャップデビュー戦の入場者数は3935人で馬券販売は1億6800万円。1人当たり1日4万円余りを購入していた計算になる。馬券は競馬場での窓口発売と電話投票のみ。ネット販売のような手数料(10%超)はなく、競馬場の実利は大きかった。紙面上にあるように、当時の笠松競馬には既に電話投票サービスがあった。もちろん携帯電話などはなく、笠松が全国の地方競馬での先駆けとなって導入した画期的システム。場内のおばちゃんが、口頭での電話投票を受け付けていたが、混雑時には頼まれた馬券が買えず。結果的に「3万円馬券」を取り逃がし、痛い目に遭ったこともある。

 ■「笠松発のシンデレラストーリー」

 今年のオグリキャップ記念は4月27日に開催される。28日にはウマ娘シンデレラグレイ賞もある。地方から中央入りして有馬記念を2度制覇したオグリキャップのデビューの地・笠松にスポットが当たり、聖地巡礼で来場する若いウマ娘ファンも増えており、大盛況になりそうだ。

 中央入り後はタマモクロスとの激闘で注目された「芦毛対決」は、既に笠松でのデビュー戦から、マーチトウショウとの対戦で始まっていた。笠松時代に計8度も死闘を繰り広げた。この宿命の対決があったからこそ、オグリキャップは成長力を高め、「笠松発のシンデレラストーリー」は大きな翼を広げていった。聖地・笠松競馬場での2戦目以降の記録についても順次伝えていきたい。