「下留駅跡」の標識=下呂市野尻
国道41号の中呂の地名表示標識=同市萩原町中呂
国道41号の上呂の地名表示標識=同市萩原町上呂

 日本三名泉の一つ、下呂温泉を有する岐阜県下呂市。「下呂」の地名とその響きは印象的だが、由来はなかなかピンとこないのではないだろうか。下呂市内にはさらに「中呂」「上呂」の地名があり、上中下がそろう。地名の成り立ちを探っていくと、ある「駅」の存在にたどり着いた。ただし、現代の「駅」とは違う「駅」で、奈良時代から平安時代の律令制の頃までさかのぼる。

 国道41号を車で走ると、下呂市萩原町に入りすぐに「中呂」の地名標識が目に入る。JR高山線の駅としては禅昌寺駅のあたりだ。その先、下呂駅から高山寄りの3駅先に上呂駅が。飛騨川の下流から順に下、中、上と並ぶ。

 7世紀後半から10世紀にかけての律令制の時代。都と地方を結ぶ主要な道は「官道」とされた。官道の一定の距離ごとに「駅家(うまや)」が設けられ、緊急の公的な使者が使うための「駅馬(はゆま)」が置かれたという。

 美濃から飛騨へと続く官道は、近江、美濃、飛騨、信濃、出羽などの各国が属する東山道の飛騨支路だった。下呂市の金山地域から下呂地域にかけては、飛騨川に沿った現在の国道41号や高山線と異なり、かつての道は山越えの経路を通っていた。そして、現在の下呂市萩原町尾崎付近から位山峠を越え、高山に至っていた。位山峠には今も所々に石畳が残る。

 旧益田郡下呂町が出した町史「飛騨下呂」によると、8世紀中頃の飛騨支路の駅として、菅田駅と伴有(とまり)駅の2駅があったという。標準的な駅間隔の約16キロの倍以上ある約40キロ離れ道中も険しかったといい、776年に中間に「下留(しものとまり)駅」を設けた。後に「下留」が音読され「ゲル」、そして「ゲロ」と転じ、「下呂」の字が当てられたという。伴有駅は「上留(かみのとまり)駅」となり、同様に「上呂」へと転じていった。「萩原町史」は、中呂は、両者の中間にあることから名付けられたと考えられるとしている。

 下呂市野尻に、ここに下留駅があったとする「下留駅跡」と書かれた標識が立てられている。背後には水田。駅の跡といっても、線路やホームのような遺構があるわけではない。この地域の事情に詳しい人に聞くと、10年ほど前に地域の郷土史のグループが標識を立てたという。「飛騨下呂」や「萩原町史」によると、下呂市森または野尻にあったとする説を紹介している。

 一方、現代の「駅」。明治時代に鉄道が欧米から伝わった際、英語のステーションの訳語として「駅」が広まったという。

 高山線は岐阜駅と富山駅から線路を延ばしていき、1934年10月25日に全線が開通した。岐阜駅からの線路が下呂駅に到達し同駅が開業したのは30年11月2日。翌31年5月9日の飛騨萩原駅までの開業と同時に禅昌寺駅が開業。33年8月25日に飛騨小坂駅まで線路が延びたのと同時に上呂駅が開業した。

 実は、禅昌寺駅は当初設けられる予定はなかった。地元の寄付により設けられたという。駅の近くには禅昌寺がある。平安時代の創設とされる臨済宗妙心寺派の名刹(めいさつ)から名を取った。

 駅名では「上中下」3点セットとはならなかったものの、地名は長年の歴史を伝えている。