プロ野球で活躍した故・高木守道さんを主将に準優勝した1959年選抜の岐阜商(現県岐阜商)。以降、春夏通じ名門の決勝進出はなく、皇太子さま(現上皇さま)ご成婚中継のため、高校野球中継が開始されてから唯一、決勝のテレビ中継がなかった大会でもあった。2回戦戸畑(福岡)戦での6連続バント(3失策含む)は今でも甲子園記録で、バットを短く持つ〝短打主義〟や、投手の継投を65年前に確立するなど甲子園に革命を起こした同年の扇の要・捕手国井恒男さん(82)に秘話を聞いた。

 2024年は、高校野球の聖地・甲子園球場が開場して100周年を迎えます。岐阜新聞電子版で毎週木曜日に各年の感動を当時の紙面と主力選手インタビューで振り返る「甲子園100年ぎふ」を連載中。そのインタビュー記事をWebで紹介します。電子版ではベテラン記者による試合の振り返り記事、当時の紙面も掲載。電子版はこちらから。「媒体」で「ぎふ高校野球」を選択してください
準優勝メダルと当時のウイニングボールを手に1959年選抜の思い出を語る国井恒男さん=岐阜市折立
 【国井恒男(くにい・つねお)】1941年。揖斐郡大野町生まれ。岐阜商で捕手。明治大から社会人野球の愛知マツダで活躍。岐阜商工信用組合に移り、65年岐阜国体に出場。高校野球では本巣(現本巣松陽)、大垣工で監督を務め、母校の県岐阜商や岐阜でコーチ、多くのプロ選手も育てる。現在も岐阜農林でコーチを務める。

 ―初戦の日大二(東京)は開幕試合だった。

 国井 選手はかなり緊張していた。決勝がご成婚と同日、始球式を務めたのが、美智子上皇后の伯父に当たる大阪大総長正田建次郎さんで、上皇后さまと不思議なご縁があった。後攻の私が始球式の捕手を務めたが、球はバックネットに飛んでいった。これで、みんなの気持ちがほぐれたのを覚えている。

 ―今では当たり前の継投を65年前にやっていた。

 国井 1学年下の左腕近藤精吾、右の宮嶋忠、左腕の鷲見領一の3人が左右順番にマウンドに上がった。...