裄丈(ゆきたけ)は66センチ、身丈は160センチ。そう呟(つぶや)きながらハンガーを手繰り、柄の中に埋もれる。菊、紅葉、梅、亀甲、ぼかしに色無地。そう、着物だ。去年の夏ごろからだろうか、友人の勧めで骨董(こっとう)市に行き、一枚千円の袷(あわせ)を買ってから、ユーズド着物沼に溺れている。よく行く大須の古着着物の店は特にリーズナブルで、4千円あれば帯と着物が揃(そろ)ってしまうこともざらだ。一番お金がかかったのが長襦袢(ながじゅばん)と草履。これだけは初期投資というべきだろう。洗えて長く使えるきちんとしたものを買った。

 去年の春、短歌界のレジェンドともいえる馬場あき子さんのドキュメンタリー映画「幾春かけて老いゆかん」では、馬場さんが能の仕事でしゃっきりと着物を着ていたのがやけに印象的だった。まっすぐな姿勢、そして折り目正しい所作、いかにも日本の歌人という装いと姿に魅了されたが、私がせいぜい手を出せるのは中古のポリエステルの着物くらい。

撮影・三品鐘

 真夜中、練習用に長襦袢を着て、うなじの衿(えり)を抜き、その上にクリップで襦袢と袷の背中心を合わせて止める。そしたら長襦袢の芯の入った衿が崩れないように、そうっと、しかし迷いなく着物を羽織る。着物は左前。まず両裾の高さを合わせ、位置を整える。左の裾の位置を確認するとまた広げて右の裾を合わせ、その上に左の裾を。帯紐(おびひも)でおはしょりを作ったらコーリンベルトで襟元を整え、場合によってはその上にも帯紐。それから帯板を巻き、いよいよ名古屋帯を巻いていく。名古屋帯は大抵帯枕がいるけれど、私が今覚えようとしているのは銀座結びという比較的カジュアルな帯の結び方だ。が、これがなかなかというか全然うまくいかない。毎晩のように「着物着付け 初心者」でユーチューブ検索しながら唸(うな)る日々だ。

 しかし着物の面白さはまさに「沼」だ。「沼なんてなんぼあってもいいですからね!」という言葉があるが、あの帯にこの着物、帯紐は、帯揚げは、バッグは…と考えていくときりがない。しかし、背筋が伸びる沼でもあって、これを着て素敵(すてき)なところに行きたいな、日本の文化っていいって知ってもらいたいな、と思うから、中毒性はあっても輝かしい沼なのだろう。と考えているうちにまたしても足は大須の着物屋へ。いや、今度は袋帯も欲しいよね…。


 岐阜市出身の歌人野口あや子さんによる、エッセー「身にあまるものたちへ」の連載。短歌の領域にとどまらず、音楽と融合した朗読ライブ、身体表現を試みた写真歌集の出版など多角的な活動に取り組む野口さんが、独自の感性で身辺をとらえて言葉を紡ぐ。写真家三品鐘さんの写真で、その作品世界を広げる。

 のぐち・あやこ 1987年、岐阜市生まれ。「幻桃」「未来」短歌会会員。2006年、「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞。08年、岐阜市芸術文化奨励賞。10年、第1歌集「くびすじの欠片」で第54回現代歌人協会賞。作歌のほか、音楽などの他ジャンルと朗読活動もする。名古屋市在住。

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