薩摩義士の遺徳をしのんで建立された13人の墓。今年で宝暦治水270年となり「280年、300年と顕彰が続いていくように」と願う鷲野善仁会長(左)と矢野年孝前住職=海津市南濃町、円成寺
薩摩藩・島津家の家紋が付いた囲いの上に建つ円成寺の薩摩義士13人の墓
揖斐川(右)と長良川(左)を隔てる油島千本松締切堤=海津市海津町
平田靭負を祭神とする治水神社
工事の進展を願って濁流に身を投げ、人柱になったと伝わる舛屋伊兵衛の墓=安八郡輪之内町、円楽寺

 岐阜県海津市南濃町、揖斐川堤防沿いの円成寺には「薩摩義士13人の墓」がある。島津家の家紋が付いたコンクリートの囲いの上に墓石が「コの字」に並ぶ。江戸中期の木曽三川治水工事「宝暦治水」の犠牲者が弔われている。

 墓石にはそれぞれ名が記されているが、みな下級の“名もなき者”たち。「慣れない気候風土で、食料や衛生面の待遇も十分ではなく、疲労困ぱいの中で故郷を思いながら亡くなっていったのだろう」。円成寺の矢野年孝前住職(76)は思いを巡らす。

 宝暦治水は、木曽川、長良川、揖斐川の三川分流を目的に、江戸幕府が薩摩藩に命じた。1754(宝暦4)年に着工。工区は現在の羽島市周辺から三重県桑名市付近までにわたり、1年以上かかって完了した。県治水史などによると、薩摩藩は工事費40万両(現代換算で200億円超)を負担。家老平田靭負(ゆきえ)をはじめ1千人以上の藩士らを派遣した。

 工事は苦難を極めた。現場では伝染病がまん延して病死者が続出。幕府に対する抗議の自決や借金苦による自殺も相次いだ。幕府としては外様の薩摩藩にお金を使わせることも目的であったため「地元住民はお金で雇われるなら良いが、無償で手伝ったり食料を提供してはいけなかった」と、宝暦治水史蹟保存会(海津市)の鷲野善仁会長(67)は解説する。

 過酷な状況下で犠牲となった薩摩義士たちの墓が、西濃南部や羽島市など各地に残る。その一つが円成寺の13人の墓。矢野前住職によると、河原に点在していた木の墓標がいつしか寺の境内に集められ、昭和初期に現在のような墓石が建立されたという。地元の顕彰会が年に1度、慰霊祭を営んでいる。

 一方、海津市の最南部、揖斐川と長良川を隔てる「油島千本松締切堤(千本松原)」は宝暦治水最大の難工事だった場所。脇には平田靭負を祭神とする治水神社が建てられ、同保存会が薩摩義士の遺徳をしのんで毎年4月25日に例大祭を行っている。現在につながる三川分流が完成したのは明治期になってからだが、鷲野会長は「宝暦治水でその礎が築かれた。薩摩の多大な貢献の上に今の海津があるという感謝の気持ちを込めて顕彰活動を続けている」と力を込める。締切堤には工事完了の記念に薩摩藩士たちが植えた松並木。270年の時を超えて、今も川の流れを見守っている。

アクセス:海津市役所から車で10分ほど揖斐川右岸沿い

  概要:墓石

※名前、年代、場所などは諸説あります。