選手権で岐阜県が唯一の優勝を遂げた1936年の岐阜商は岐阜県最強と言える強さを誇った。岐阜大会準決勝・岐阜農林戦の40―0は今でも大会最多得点、決勝・岐阜中(現岐阜)の29―1も決勝最多得点。甲子園も1回戦盛岡商(岩手)の18―0は春夏通じ、岐阜県最多得点。5試合で計47得点、全試合1失点以内と圧倒的な強さだった。

 だが、新チーム発足から夏前までエース松井栄造が「再起不能」とまで言われた不調。主力の卒業で最上級の5年生(当時5年制)は松井と二塁手の長良治雄のみで、4年生はゼロ。

 岐阜県最強チームは不死鳥のようなエース復活を礎に戦うたびにチーム力を高めた。

岐阜県唯一の選手権優勝を初出場で果たした1936年岐阜商ナイン

■松井不調の中、下級生が多い新チームが成長

 35年の選抜で背番号1を付け、全試合完投で2度目の全国制覇を遂げた松井だが、夏の東海2次予選準決勝で愛知商に1―2で惜敗して以降、肩と腰の痛みで不調にあえいだ。

 打者としての活躍が腰痛の原因で、落ち幅から「三尺(約1メートル)」と言われた伝家の宝刀ドロップの肩への負担も大きかった。スキーで骨折したという説もあり、「松井再起不能」と報じられた。

 5年連続出場の36年選抜は1回戦広島商戦は3年の野村清が先発し、松井は七回から登板したが3―2でサヨナラ勝ちの辛勝。2回戦松山商(愛媛)は野村完投で0―2で敗れた。

 松井の穴を埋める投手は野村だけ。

 夏前、各務原球場での平安中(現龍谷大平安、京都)との練習試合も野村完投で6―10で敗れ、応援団から「松井を出せ」のやじが飛んだ。

 松井温存の中、下級生の多いチームの成長は明大野球部OBの松井久コーチの存在が大きかった。週末に訪れて合宿所に泊まり、昼間の練習、夜のミーティングと選手を高めた。

 「松井、野村の両輪に加え、個性的な選手が多く、おもしろいチームになる」と確信していた松井コーチは甲子園でベンチに入り、日本一に導く。

■松井が完全復活 投打充実で初の夏の覇者に

 夏の予選が始まった。...