完全試合を達成した翌日の岐阜日日新聞の記事を懐かしそうに眺める小寺進さん=可児市皐ケ丘
完全試合達成を伝える1961年7月22日の岐阜日日新聞

 プロ野球のロッテ佐々木朗希投手が4月、史上最年少で完全試合を達成し、脚光を浴びた。一人の走者も出さない完全試合は投手にとって最も達成の難しい記録で、プロ野球史上28年ぶりの快挙。球界でも無安打無得点(ノーヒットノーラン)の達成者85人のうち、完全試合は16人にとどまる。岐阜県内に目を向けると、夏の甲子園出場を懸けた全国高校野球選手権岐阜大会で完全試合はたったの2度。1961年に、大垣商高のエースとして初めて達成した小寺進さん(79)=可児市皐ケ丘=は「とんでもないことをやったんだと後で知った」と当時を振り返る。

 小寺さんが完全試合をやってのけたのは、高校3年生で迎えた第43回大会の1回戦・高山戦。エースで4番、主将として臨み、5-0で勝利した。一回から低めの直球の伸びが抜群だったといい、直球とドロップを中心とした投球で、アウトを積み重ねた。27アウトのうち三振23を奪い、大会の最多奪三振記録も打ち立てた。外野への飛球はなく、圧巻の内容だった。

 完全試合を意識し始めたのは八回ぐらいから。三振を取って0点に抑えることしか頭になかったが、仲間から「まだ一人も走者が出ていないな」と告げられた。ただプレッシャーはなかった。「打たれる気がしなかった。今振り返るとあの試合が一番調子が良かった」

 2学年下で、当日はスタンドから応援していた林樹三郎さん(76)=揖斐郡揖斐川町上南方=は「すごいものを見た」と、今でも当時のことを鮮明に覚えている。「剛速球が面白いように捕手のミットに収まっていた。打者のタイミングが全く合っていなかった」と話す。スタンドでは回を重ねるごとに、完全試合への期待が膨らんでいたといい、「本当に見事だった」と振り返る。

 最後の打者を渾身(こんしん)の直球で三振に抑えた瞬間、大記録が誕生した。小寺さんは完全試合よりも、23個の三振を奪ってチームが勝てた喜びの方が大きかったが、マスコミはこぞって偉業を取り上げた。当日の夜のニュース番組でも紹介され、「とんでもないことをやったんだ」と自覚した。2回戦で、岐阜商に敗れるが、この年岐阜商が甲子園に出場、甲子園でも4強入りを果たした。

 小寺さんの後には78年の60回大会で、市岐阜商高の野村正幸さんが1回戦の岐阜農林戦で完全試合を達成するが、それ以来、達成者は出ていない。小寺さんは佐々木投手の偉業に「自分とは比較にならない」と謙遜しながらも「完全試合のニュースを聞くとうれしいし、自分が達成した時のことを思い出す」と懐かしむ。

 来月9日には岐阜大会が開幕する。当時はバットは木製だったが、現在は金属で打者優位。また、球数制限の導入や継投策の定着で、完全試合達成のハードルは以前にも増して高い。それでも小寺さんは「大記録は生まれにくいかもしれないが、ぜひ見てみたい」と、44年ぶりの快挙達成に期待を込める。