3月に書いたエッセーの続きだが、昨年冬、性暴力に遭った。ずいぶん回復した今だからこそ言えるが、その衝撃はとてつもなく、3月に発表した段階では自分にどんな変化が起こるか、どんなことに苦しむか、まだわからなかった。

 具体的な経緯を聞くことで気分が悪くなる方もいると思うので詳細は伏せるが、被害に遭った後、わたしは全く怒ることができなかった。そればかりか、被害を最小限にするため相手の機嫌をとるようにつとめたこと、強くノーが言えなかったこと、また被害に遭うのはわたしに「隙」があり、翻って自分が一番悪いのだという失望のバッドスパイラルに陥っていった。

 「自分が小さく弱くてつまらないものになった気がする」

 今年の2月の日記にはそう書き記してある。「逆らえない暴力を受け入れなければままならない状況で、悪いのは加害者だ」という認識をすっ飛ばして「わたしが弱いから受け入れてしまった」と思った時、自分が無価値で、とても弱くてひとりではなんの力もない存在に見えて、みるみる惨めになっていった。

(撮影・三品鐘)

 「そんなの、両手で張り倒して訴えてもいいような話ですよ」

 ようやくかかった心療内科で、医師はわたしの被害を我がことのように怒った。

 「でもわたしが悪いんだと思ってしまいます、わたしが被害を引き出すような行動をしたのだと」

 「どうやって相手から被害を引き出すんですか? そんなことはできませんよ。…いいですか、まずは知識としてだけでいいから『わたしは悪くない』というのを頭に入れてくださいね」

 わたしは悪くない、わたしは悪くない。そう繰り返して生活しているうち、ぽっと心に強く鮮やかな怒りの花が咲いた。よくもわたしに、わたしは絶対に許さない、わたしをそんなふうに扱っていい人間なんて、この世に一人もいない。そう一人も。

 性被害に遭った時よく使われる、「隙があった」「いけると思った」「怒らないと思った」という加害者側の意見は、加害者の感じ方であって受け入れることではない。加害者にあなたがどう見えたとしても、あなたを好きにしていい人などどこにもいない。

 傷ついたもの、傷を抱えているものたち、どうか惨めにならないで心に鮮やかな美しい怒りの花を咲かそう。わたしを傷つけていい人はどこにもいない。そうして怒りの花束を掲げて、この世の端から世界を更新するのだ。


 岐阜市出身の歌人野口あや子さんによる、エッセー「身にあまるものたちへ」の連載。短歌の領域にとどまらず、音楽と融合した朗読ライブ、身体表現を試みた写真歌集の出版など多角的な活動に取り組む野口さんが、独自の感性で身辺をとらえて言葉を紡ぐ。写真家三品鐘さんの写真で、その作品世界を広げる。

 のぐち・あやこ 1987年、岐阜市生まれ。「幻桃」「未来」短歌会会員。2006年、「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞。08年、岐阜市芸術文化奨励賞。10年、第1歌集「くびすじの欠片」で第54回現代歌人協会賞。作歌のほか、音楽などの他ジャンルと朗読活動もする。名古屋市在住。

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