大河ドラマ「どうする家康」にも登場する徳川家康の長女、亀姫。亀姫は現在の岐阜市にあった加納城に一時住み、最期も加納城で亡くなっている。地元では今でも一部で、勝ち気な女性のことを「カメヒメサマ」と呼ぶくらい浸透した人物だ。天下人、家康の長女はどんな人物だったのか。
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亀姫は桶狭間の戦いがあった1560年に生まれ、1625年に亡くなったとされる。母は家康の正室築山殿で兄は信康だ。家康の命令で奥平信昌と1576年に結婚。加納藩(岐阜県中南部)初代藩主となった信昌とともに、1601年ごろに加納城に移り住んだ。当時の結婚らしく政略結婚だが、四男一女と5人の子どもを残している。加納では亀姫は化粧田として、つまり個人財産として2千石を別に与えられており、天下人の長女らしく特別扱いをされている。
亀姫には気が強かったとされる伝承が多く残る。老中の土井利勝に会った時、夫の信昌が末座で手をついている中、亀姫は土井を呼び寄せ、「(将軍で弟の)秀忠に手紙を書くにも姉として宛名の書き方に困って書けない」と言ったり、当時権勢を誇った本多正純が失脚する原因となったとされる「宇都宮釣天井事件」の仕掛け人として名前があがったりもしている。
加納城にいたころの話としては、12人の侍女をとがめて一度に処刑したとされる激しい話もある。とがめた理由は伝わっていない。勝ち気な女性を示すエピソードには事欠かない。
ただいずれも伝承にとどまり、事実かどうかは判断できない。岐阜市歴史博物館の学芸員、佐藤友理さんは「家康の娘というだけで、周囲は気を遣う。気が強かったと思われる伝承が多く残るのは、その反映もあるのでは」と推測する。一方、歴史が専門で、地元が加納城跡からも近い岐南工業高校講師の浅野伸一さん(67)=岐阜市菊地町=は「戦国時代まっただ中に生まれ、新たな平和の時代まで生きた。そんな環境であれば、気が強くなって当たり前」と指摘する。いずれにしろ、周囲からしたら取っつきづらいタイプだったのだろう。
周囲が亀姫を特別扱いしていたことは、残された画像からも推測できる。岐阜市には光国寺=加納西広江町=と盛徳寺=加納奥平町=という亀姫ゆかりの寺がある。盛徳寺は奥平家の菩提(ぼだい)寺で、光国寺は亀姫が創建した。いずれも亀姫の肖像画を所蔵しており、二つとも畳の上に敷物を敷いた上に座り、みすも描かれている。佐藤さんによると、これは位が高い人を描く描き方。ほぼ同時代の女性では豊臣秀吉の正妻のねねを同様の描き方で描かれた肖像画も残されており、亀姫が特別扱いされていたことがよく分かる。
加納藩は三男忠政が継ぎ、35歳の若さで忠政が亡くなった後は、その長男の忠隆が藩主となっている。忠隆は5歳ごろに藩主を継いだことになり、当然、政務代行が必要。その役目を祖父である信昌が担ったが、信昌は翌年亡くなり、その後は亀姫が亡くなるまで10年ほど補佐をした。
持ち前の気丈さで藩の運営を裏で仕切ったとも考えられるが、まだ幼い孫を心配して亡くなるまで補佐を務めたと考えるのが自然だろう。本来の亀姫は、気が強いだけでなく、孫を心配する優しいおばあちゃんといった側面もある女性だったのではないだろうか。









